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「ソロ」という生き方とヒマラヤとの融合 [山の図書館・映画館]

「ソロ」という生き方とヒマラヤとの融合

 

「ソロ」(笹本稜平著)

 

 「ソロ」というタイトルから思い起こされる一冊がある。「ソロ 単独登攀者 山野井泰史」(丸山直樹著、1998年、山と渓谷社)。ヨセミテやヨーロッパアルプスで腕を磨き、挑戦の舞台をヒマラヤに移したクライマーを追った。そして彼の生死の境をさまよったギャチュン・カン北壁登頂の体験は沢木耕太郎の卓抜なインタビューによって再現され「凍」にまとめられた。

 笹本の「ソロ」もまた、多くのライターが追った山野井の肖像を彷彿とさせる。しかし、舞台は、実在のクライマーのそれとはがらりと変えてある。そのうえで、「単独登攀者」という登山スタイルだけでなく、いくつかの物語の枝葉が備えられている。一つは、スロベニアの孤高の登山家トモ・チェセンとの浅からぬ因縁であったり、また一つは極めて世俗的なテーマ=スポンサーシップとの折り合いの付け方であったりする。あえて単純化していえば、「ソロ」という登攀スタイルがまぎれもない幹=縦糸としてあり、生き方の問題が横糸としてある。これに、多くの人員と膨大なルート工作を伴う極地法から少数、短期決戦型のアルパインスタイルへと切り替わる時代の変遷が絡む。

 奈良原和志はヒマラヤ・エベレストに対置するローツェ南壁の単独登攀を目指していた。それには訳があった。かつてこの南壁を単独登攀したというトモ・チェセンの報告に疑問が呈されていることに決着をつけたいと思っているのだ。それは無論、トモ・チェセンの名誉のためにであった。南壁を単独、しかも冬季に踏破することでトモ・チェセンの企てが不可能なものではなかったことが証明される。壁に残置したとトモが証言するピトンを発見すれば名誉は完全に挽回される…。

 こうしたドラマの展開に沿って織り込まれる名峰の表情は、いつもながらだが笹本の文体がさえて見事である。たとえば、こんな具合だ。

 

 ――左右に翼を広げたような幅広い山容のラカボシは、標高七七八八メートル。一見登りやすそうに見えるが、鋭いナイフリッジ(尾根)や急峻な氷壁が複雑に入り組んだスケールの大きな山で、和志の目から見ても容易いターゲットではない。

 その隣に顔を覗かせるのはディランの美しい雪のピラミッドだ。(略)

 

 雄大なヒマラヤ、カラコルム山脈の光景と人間ドラマとの融合。映像ではまだなしえない、文字と想像力によってのみ描かれる世界がここにはあるように思う。

 祥伝社、2017年、1800円。


ソロ SOLO

ソロ SOLO

  • 作者: 笹本 稜平
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2017/08/08
  • メディア: 単行本

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一見軽そうだが内容は深い~山の図書館 [山の図書館・映画館]

一見軽そうだが内容は深い~山の図書館

 

「地図のない場所で眠りたい」(対談:高野秀行・角幡唯介)

 

 「謎の独立王国ソマリランド」や「アヘン王国潜入記」の高野と「空白の五マイル」や「アグルーカの行方」の角幡による対談。ともに探検家・冒険家であるとともにノンフィクションのライターである。そしてもう一つの共通項は早大探検部のOBであること。外形的には似通っているが作家としての資質、出来上がった作品の手触りはまるで違う。10歳違い(高野の方が年上)の二人が、それぞれどこがどう違い、どこが似ているかを相互分析、自己分析を交えて語り合った。帯に「自身の〝根っこ〟をさらけ出し、語り合った」とあるが、この言葉がピタリの対談である。

 「探検」と「冒険」の違いについて、二人はこういっている。

 角幡「探検というのは基本的に土地の問題だと思っているんです。いっぽうで冒険というのは人の物語」

 高野「冒険って枠がちゃんとあってさ。その範囲がはっきりしている」

 角幡「「探検はテーマと場所が与えられているだけで、そこで何をしたらいいのかというのは個人の工夫になってくる」

 角幡はさらに「冒険か探検かは切り取り方の問題」とも言う。二人の作品を見ると、角幡のそれは「冒険」色が強く、高野のそれは「探検」色が強いように思えるが、あくまでも、おしなべての話である。個別の作品に触れれば、それぞれに思いはある。その中で角幡が、自身の代表作「空白の五マイル」と「アグルーカの行方」をどう見ているかは興味深い。一見して「アグルーカ…」は構成の妙、文体の洗練ぶりにおいて優れていると思われるが、角幡は「空白の…」を訴求力の点で超えられなかったと感じている。これはその通りだろう。作家は往々にして、世に出た最初の作品を次作が超えられないということが起きるが、角幡の場合もそうかもしれない。

 二人の作品はノンフィクションというジャンルに属するが、周辺分野であるジャーナリズムやフィクションとの比較も試みている。一見すると高野はジャーナリズムに近く、角幡はフィクション(小説)に近いとみられがちだが、それぞれ自身の見立てはどうか。

 高野は、ジャーナリズムとして見るには「自分が出すぎている」と感じているし、角幡は「空白の…」を書き終えた時、「これはノンフィクションなのか」と思ったという。

 角幡はこの感覚について「旅人の表現術」の中の沢木耕太郎との対談でさらに詳しく述べている。

 「書くことを意識してふるまう。これは行為者としてどこか不純なんじゃないかとも思うんです」

 あらかじめ書くことを意識して行為の段階から「編集」しているのではないか。それは、ノンフィクションと呼べるものなのか。

 書くことの不純性―。この問いは、行為者=書き手である角幡ならではの悩みでもあるようだ。

 一方、高野の前出のセリフについては、こんなやりとりもある。

 高野「俺がジャーナリズム」という方向に行かないのは、主義主張とか議論で話を見せたくないから」

 角幡「じゃあ、意識する相手はジャーナリズムより小説ですね」

 高野「そうだね」

 一見したよりもずっと内容が深い一冊である。

 講談社文庫、680円(税別)。

 

地図のない場所で眠りたい (講談社文庫)

地図のない場所で眠りたい (講談社文庫)

  • 作者: 高野 秀行
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/10/14
  • メディア: 文庫
 

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常人ならざる体験をさらりと語る~高野秀行の講演を聞く [山の図書館・映画館]


常人ならざる体験をさらりと語る~高野秀行の講演を聞く

 「謎の独立国家 ソマリランド」という分厚い本を書いた高野秀行の講演を9月24日に聞いた。「未知の旅には罠がある」のタイトルで、広島県山岳連盟が主催した。
 高野は早稲田大の探検部にいたころ、コンゴの謎の怪獣「ムベンベ」を追った体験をまとめた「幻獣ムベンベを追え」などで作家として出発した。講演での本人の弁では当初「辺境作家」としていたらしいが、そうすると「辺境作家って何ですか」と必ず聞かれるので今は「ノンフィクション作家」としているらしい。無味無臭のノンフィクション作家より圧倒的に辺境作家のほうがいいように思えるが、これは本人の勝手だろう。
 講演は三つのパーツに分かれていた。一つは「アヘン王国潜入記」にまつわる話。ミャンマーの山岳地帯、ゴールデントライアングルと呼ばれる地域で1995年から96年にかけて現地の人間と生活を共にした体験を話した。ワ州と呼ばれる一帯で、7カ月間、アヘンの栽培に携わったという。ワ州は有史以来、どの国の支配下にも入ったことがないとされる。そのせいかどうか、生活スタイルはシンプルという。アヘン栽培は肥料もやらず雑草取りと間引きだけ、食生活はもみを毎朝つき、雑炊にして食べる。入れるのはネギか菜っ葉、ニラの類いだけ。卵も食べない。酒は雑穀を発酵させたものを竹筒でつくったコップで飲む。しかし、ワ州連合軍というゲリラ組織を構成、勇猛果敢な戦闘ぶりは知られていたらしい。アヘンそのものはワ州でも使用が禁じられ、税として納めるほか外貨獲得の手段でもあったという。
 二つ目はソマリランドの話。これは「謎の独立国家 ソマリランド」で書かれたことほぼそのままだった。米軍ヘリ撃墜事件を描いた「ブラックホークダウン」で知られるソマリアは今、三つの地域に分かれるという。一つは内戦を終結させ民主主義のルールが徹底されているソマリランド、二つ目はソマリア沖を航行する船舶への海賊行為で知られるプントランド、三つ目が、激しい内乱が今も続くソマリア。その中のソマリランドで住民と生活した体験を主に語った。レンガのような分厚い札束を手にしないと用をなさないソマリランド・シリング。かつてソマリア政府が倒れた時、超インフレが襲ったためこうした状態になった。現在は紙幣印刷技術を持たないため、デノミにできないという。ただ、紙幣を刷り増すことがないので、さらなるインフレにはならないという。高野によれば、経済学者はこの状態を一種の奇跡と呼んでいるらしい。そして覚醒植物カートの存在。見た目は単なる葉っぱで口に入れてもうまくもなんともないが、30分ほど我慢して食べていると突然うまくなり、意識がはっきりしてくるという。ソマリランドの人たちは午前中働き、午後になると仕事をやめて「カート」運搬車が来るのをひたすら待つという。カートが来れば人々が群がり、あちこちでカート宴会が始まる。宴会ではカートが主役でコーラなどの飲み物がつまみになる。居酒屋とは逆の情景だ。もちろん、カート宴会に加わらなければ現地住民との交流もおぼつかないと、高野は言う。

 そしてソマリア人は何事も「超速」でしかも飽きっぽいという。インタビューなど5分も持たず、携帯をいじったり、どこかへ出かけたりする。犬をじっとさせようと思ってもじっとしない、あの感じに似ていると高野は言う。

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 内乱が収まらない南部ソマリアは荒廃しているが物資が豊富で栄えてもいるらしい。理由は、和平会議などが企画されるたび、国連などの支援物資が大量に流入するためだという。ネット社会やマスコミも発達しているという。高野の著作と講演は、ソマリアに対する我々の常識を覆すのに十分である。

 三つめの話は「謎のアジア納豆」。納豆は日本固有のものと思いがちだが、アジアに広く納豆文化圏は存在するらしい。食べているのはそれぞれの国のマイノリティーだという。なぜか。アジアの中で納豆を食べないのは漢民族である。だから漢民族に押しやられ、肉や魚が手に入れにくい山岳部、盆地の民族・地域で納豆文化圏が成立したのだという。しかし、藁で包む日本の方式は他のアジア地域ではほとんど見られず、シダなどの葉でくるんだものが主流である。

 この三つの話をまとめて、高野は「辺境とは何か」と問う。ソマリアは世界に開かれ、ソマリア人は世界をよく知っている。これに対して日本は閉じられた文化圏、つまりガラパゴス化が進んでいる。世界から見れば辺境とは日本のことではないか。「納豆文化圏」を考えてもそういえるのでは、と高野は言う。

 講演の印象を一つだけ言えば、高野と同じ早稲田大探検部OBとして角幡唯介がいる。角幡は高野のちょうど10歳年下である。角幡の場合、探検という行為自体が「表現」として認識されている。そのため、探検という行為を通して生と死が極めて近いものとしてとらえられる。言い方を変えれば探検を内省的にとらえる。しかし、高野の場合はどうか。あえて生と死を並べてみせることを、高野はしない。むしろ「死」を遠ざけることで「探検」を成し遂げようとしている。例えば、海賊行為で知られるプントランドを訪れた時、拉致されないためボデーガードを雇っているが、この話をするときに「おそらく拉致する人間も護衛をする人間も同じ人たちだろう」と明かし、「つまり身代金を前払いにするか後払いにするか(ボデーガード料は結構高く、少しの期間雇っただけで身代金ぐらいになったという)の違い」と話した。これは結構すごいことだが、高野は「すごいこと」とは言わない。角幡なら別の言い方をしただろう。

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謎の独立国家ソマリランド

謎の独立国家ソマリランド

  • 作者: 高野 秀行
  • 出版社/メーカー: 本の雑誌社
  • 発売日: 2013/02/19
  • メディア: 単行本

冒険は表現行為である~山の図書館 [山の図書館・映画館]

冒険は表現行為である~山の図書館


「旅人の表現術」(角幡唯介著)


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 角幡は自らを「探検家」と称している。普通、探検家が書いた著作とは、探検という行為がまず完結し、そのおまけとして探検記が存在する。場合によっては、そこにゴーストライターが介在する。しかし、角幡の著作はそうしたものとは全然違う。うらやましいことに、角幡は探検家としての身体能力とノンフィクションライターとしての文章表現能力と思索力を併せ持つのだ。そのことを強く意識させられたのが「空白の五マイル」だった。さらに、「アグルーカの行方」では、自らの北極行と悲劇の結末を迎えたフランクリン隊の史実を重ね合わせるという、類まれなストーリーテラーの才も証明した。

 そうした角幡が、自らの著作の製造工程の一端を明らかにしたのが、この一冊である。開高健論、沢木耕太郎との対談、「氷壁」と「神々の山嶺」との比較論、そして「冒険」論…。

 開高健論では、本多勝一との比較が意識されている。本多と比較した場合、開高は冒険者、探検家としては一歩引き下がらざるを得ない。しかし、角幡はむしろ開高にひかれている。それは、死が充満するところへ向かう、それが生を活性化させるという開高の渇望感に共鳴するからだ。

 ――開高健が求めていたのはジャーナリスティックな戦場の現実ではなく、死の充満した冒険の舞台だった。

 開高は、そうした空間を荒地と呼んだ。生と死のひりひりした空間を描いた「輝ける闇」と、それに続く「夏の闇」から、彼は「日本三文オペラ」へと向かう。朝鮮特需に沸く中で繰り広げられた屑鉄漁りの模様を描いた小説である。
 ある講演で佐高信は「現代には闇がない」と話していた。現代は何もかも、形状がはっきりしており、定義がなされ、したがって恐怖を呼び起こすものがない。佐高はこれを「妖怪がいない社会」と表現したが、これは開高の「荒地」とはまったく異なる空間のことを言っている。そして開高は「オーパ!」で、これまで取り込んだ「死の空間=荒地」を小出しにして生き延びる。
 沢木との対談は、ノンフィクションの作法論というべきものだが、根底的なところですれ違っている。それはなぜか。角幡は探検、冒険行為自体を表現行為と認識しているのに対して、沢木はその部分を対象に委託しているためだ。例えば角幡は「事実をもとに自分が思いこんだものを描きたい」というが、ここに沢木は立ち入れない。そのうえで興味深いのは、沢木が取材者としての自分を無批判には提出できない、書き手にはもう一つの目が必要だ、としたのに応じて、角幡が「書くことを意識してふるまう。それは行為者としてどこか不純なんじゃないかとも思う」といっている点だ。これは、冒険と「書く」という行為を合わせて表現行為という角幡ならではの心境であろう。
 この、冒険=表現行為という視点は、「氷壁」と「神々の山嶺」との比較論にも貫かれる。
 「氷壁」の主人公・魚津恭太は山に情熱を傾ける男だが、社会との折り合いはつけている。しかし「神々の山嶺」の羽生丈二(森田勝がモデルといわれる)は、もともと社会との折り合いがついていない。社会生活の全てをなげうって山に挑む男である。そして、角幡は羽生への共感をにじませる。
 この視点が、角幡の冒険論の基盤になっている。本多は最も冒険的な冒険を体制権力に対する反逆に求めたが、角幡はこの「反体制」を「反システム」ととらえ、言葉の意味を広げた。そして、システムへの反抗こそが冒険であるという。
(集英社、1800円=税別)


巨大な壁を舞台に人間ドラマ [山の図書館・映画館]

巨大な壁を舞台に人間ドラマ


「大岩壁」(笹本稜平著)

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 ナンガ・パルバット。パキスタン北部にあり、日本語では「裸の山」。標高8125㍍のうち、谷底から山頂まで標高差5200㍍のほとんどは垂直に近い岩壁で、吹き付ける強風のためほとんど雪がつかないという。山頂を目指した登山家のうち5人に1人が死亡するという危険な山で「人食い山」とも呼ばれる。冬季登頂が果たされていない8000㍍峰はK2と、このナンガ・パルバットだけである。1970年、ラインホルト・メスナーがルパール壁から登頂を試みたが途中でギブアップ。この時、弟を失った。メスナーは8年後にディアミール壁から単独で登頂した。

 この山を舞台に、メスナーと同じルパール壁からの冬季登頂を目指す男たちを描いたエンターテインメント小説が、この「大岩壁」である。

 ディアミール壁上部で立原、木塚、倉本の3人は急速に崩れた天候と急峻な岩壁に進退窮まっていた。停滞するうち高所障害が出始めた倉本をみて、2人は撤退を決断する。しかし、懸垂下降のさなか、倉本は音もなくガスの向こうに消えた…。

 5年後、立原と木塚は、アルパインスタイルでの再挑戦を計画する。目指すのは冬季初登頂だ。そんな折、未知の男から連絡がある。倉本の弟と名乗り、キャリアもつかめない彼をメンバーに加えるべきか。迷った末に、パーティーは3人で構成される。ベースキャンプを置いたルパール壁下部には、先着のロシア人パーティーがいた。やはりメスナー・ルートを狙うという。それなら、別ルートを登ればいいと倉本は主張する。ロシア隊には何か魂胆がありそうだと疑心暗鬼になった折り、倉本は単独でルパール壁に取り付いてしまった。ロシア隊より先に登頂を果たしたい、そんな思いからだろうか…。

 こうしたストーリー展開の合間に、硬質な文体による山々の描写が挟み込まれる。

 ――ルパール壁はいまは斜め横からの日射しを受けて複雑な陰影を浮かび上がらせ、純白に輝く氷雪と岩肌のコントラストが天に駆け上る巨大な龍を連想させる。

 ――標高四〇〇〇㍍に達したあたりで夜が明け始めた。

東にはK2を筆頭に、ブロードピーク、ガッシャーブルム山群、チョゴリザ、マッシャーブルムなどカラコルムを代表する巨峰群がそそり立ち、曙光を受けた山肌が燃えるような深紅に染まっている。

 こうしたパノラマを直に見たい。しかし、パキスタン北部はいま、世界的にも最も治安の悪いところとして知られる。とりあえずは、こうした著作によって楽しむしか方法はないであろう。ラインホルト・メスナーが著した「裸の山 ナンガ・パルバート」と合わせて読めば、興はさらに増す。

「大岩壁」は文芸春秋刊、1600円(税別)。初版第1刷は2016525日。「裸の山 ナンガ・パルバート」は山と渓谷社、1800円(税別)。初版第1刷は20101020日。

大岩壁

大岩壁

  • 作者: 笹本 稜平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2016/05/21
  • メディア: 単行本

裸の山 ナンガ・パルバート

裸の山 ナンガ・パルバート

  • 作者: ラインホルト・メスナー
  • 出版社/メーカー: 山と渓谷社
  • 発売日: 2010/10/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

  • 迫力ある山岳シーン~映画「神々の山嶺」 [山の図書館・映画館]

    迫力ある山岳シーン~映画「神々の山嶺」


     夢枕獏の原作を映画化した。上下2巻の長編である。原作ではマロリーのカメラ(コダック)をめぐる謎、カトマンズのディープな街の雰囲気、すべてが入念に描かれている。しかし、映画ではそれらをそぎ落とし、エベレストに挑み続ける孤高のクライマー、羽生丈二(阿部寛)と山岳カメラマン深町誠(岡田准一)の人間関係と、その舞台となるヒマラヤのシーンに多くを費やしたのは、「小説」「映画」というメディア媒体の違いを考えればやむを得ないところか。

     マロリーは1924年、エベレストの頂稜近くで目撃されたのを最後に、姿を消した。遺体発見は75年後、1999年のことだ。夢枕の原作本はその2年前に刊行されている。マロリーが目撃されたのは登山中だったか下山中だったか。そこが大きな分かれ目になっており、それは今も変わらない。登山史上最大のミステリーを巧みに織り込み、山に常人ならざる情熱を傾けたクライマー列伝をベースにしながら紡ぎだされたのが、この「神々の山嶺」である。

     ちなみにいえば、主人公の羽生には「ホキ勝」こと「森田勝」が、彼のライバルである長谷常雄には長谷川恒男が投影されているといわれている。森田は「谷川岳・三スラの神話」と呼ばれた男であり、そのことも映像で出てくる。K2での反乱のエピソードなど、無頼・破滅型の印象が強い。映画の中で羽生が挑む南西壁は山学同志会の小西正継が挑んだことがあり(途中で撤退)、そのエピソードも組み込まれていると思われる。

     これだけの舞台装置を整え、後は迫力ある山岳シーンが続く。それ以上に語ることは何もない。惜しいのは、山岳シーンがメーンであるため、尾野真千子(山で死んだ男の妹を演じている)という名優を得ながら力量を発揮する場面があまりないことである。

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    精緻なパズルのような [山の図書館・映画館]

    精緻なパズルのような


    「生還者」(下村敦史著)


    生還者.jpg 大事故や大災害、あるいは戦禍をくぐり抜け生き延びた人たちには、ある種のPTSDが宿るという。「サバイバーズ・ギルト」―。自分一人が生き延びたことへの罪の意識である。

     標高8000㍍を超すヒマラヤ・カンチェンジュンガ。写真でしか見たことはないが、その姿は圧倒的なスケールを思わせ、壮大である。同時にこの山は、インド・ダージリンという早くから拓けた地から比較的身近に眺められる山としても知られる。ぜひ一度見に行きたいものだ。といっても、山頂付近は容易に人跡を寄せ付けない。近年になっても遭難事故が起きている。つまり、この地はある種の「密室」なのである。

     サバイバーズ・ギルトと密室。この二つの要素を組み合わせて書かれたのが、この「生還者」である。

     山岳を舞台にしたミステリーは数多くあるが、その中でこれほど精緻に組み立てられた作品を他に知らない。諜報戦に材をとることの多いジョン・ル・カレを思わせるほどだ。何か足りないものを上げるとすれば、カレの作品にある極上のワインの香りのような豊潤さであろうか。単に「香り」といっていいかもしれない。それがあれば下村は、永遠に読者の心を離さないであろう。

     増田直志の兄・謙一は登山家だが、この4年間「山」を絶ってきた。その彼がカンチェンジュンガに向かい、遭難する。なぜ突然、山に向かったのか。彼を長く山から遠ざけていたものは何か。

     その同じ山で同じころ、別の遭難事故が起きる。そこから生還した高瀬正輝は、二つのグループに交錯する加賀谷義弘を「命の恩人」とたたえる。そして、いまだ不明の加賀谷の発見を訴える。それは同時に、グループ内で加賀谷と決別したと思われる謙一の否定につながっていた。

     その後、謙一のグループの中で不明だった東恭一郎が奇跡の生還を果たす。彼は高瀬とは正反対に、加賀谷の行動を全否定する。

     カンチェンジュンガで何があったのか。そこに集まった男たちの心中に何があったのか。彼らはすべて、過去の体験の中で「傷」を追っていたことが分かってくる。何が彼らをカンチェンジュンガという密室で「交錯」させたのか。なぜ、生還者たちの証言は180度違うのか。誰かが嘘をついているのか。4年前に何があったのか。

     その謎が、直志らの手によって最終局面で一気に解ける。キーワードは、冒頭に書いた「サバイバーズ・ギルト」である。



    「生還者」は講談社刊、1600円(税別)。初版第1刷は2015721日。下村敦史は1981年京都府生まれ。高校を退学後、大検合格。2014年に「闇に香る嘘」で江戸川乱歩賞。同作品は「このミス」2015版3位。


    生還者

    生還者

    • 作者: 下村 敦史
    • 出版社/メーカー: 講談社
    • 発売日: 2015/07/22
    • メディア: 単行本

    映像は圧巻~映画「エベレスト」 [山の図書館・映画館]

    映像は圧巻~映画「エベレスト」

     いわゆるエベレスト商業登山の走りのころ起きた大量遭難の実話を映画化した。登場人物に「難波康子」という名前を見て、あああの事故ね、と思った向きは多いのではないか。彼女は1996年、田部井淳子さんに続くエベレスト登頂によって7大陸のピークを踏んだが、下山中に亡くなった。
     このとき、二つの商業登山隊といくつかのナショナルチームが登頂を目指していた。そのために、ヒラリーステップは大混雑となった。固定ロープも張られていなかったため、スケジュールは大幅に遅れ、それが下山の時刻の遅れにつながって、おりしもストームが襲ったため大量遭難が起きたとされる。
     主人公は、商業登山の一方のリーダー、ロブ・ホール(ジェイソン・クラーク)である。予定時刻を大幅に過ぎた登山客が登頂にこだわったため、彼に同行、夜になっても下山できず命を落とす(映画では少し変えてある)。

     ドラマとしては単純で深みがあるわけではない。しかし、舞台となったエベレストの映像は圧巻である。しかもそれが3Dの立体映像で見られる。だから、筋立ては単なるおまけと思ったほうがいい。

    エベレスト.jpg


    タグ:エベレスト

    文明の源流を考える~関野吉晴氏の講演 [山の図書館・映画館]

    文明の源流を考える~関野吉晴氏の講演


     探検家・関野吉晴氏の講演を聞く機会があった。9月26日、主催は広島県山岳連盟。場所は広島市内である。
     気になってはいるが、なかなかその著書や講演に触れる機会がない、という人物がいる。関野氏もその一人であった。探検家であり医師であり、なにより発想のスケールに感嘆する。人類は約20万年前にアフリカの地溝帯で生まれ、ヨーロッパから中東、アジアをへてアメリカ大陸に渡り原住民となるが、後のヨーロッパ大航海時代に襲来したスペイン軍によって大量虐殺され支配される。その経緯はジャレド・ダイアモンドの「銃・鉄・病原菌」(草思社)に詳しいが、そのルートを南米大陸から逆にたどろうというのが、関野氏の考えた「グレート・ジャーニー」である。
     もちろん、1時間強の講演で巨大な旅の全容を語ることは難しく、人類の大移動の概要と、最近実行したインドネシアから日本への「旅」に大半の時間が割かれた。
     関野氏はまず、「グレート・ジャーニー」を始めた動機について、アマゾン源流探検が最初にあったと語った。ペルーの高地からアマゾンを下る際、現地に住むインディオたちはどこから来たのか、という素朴な疑問をまず持ち、人類発祥の地であるアフリカ大陸からのルートを逆行してみようと考えたという。
     この話の中で、彼は興味深い視点を提示した。人類はなぜ、地球上で他の生物を支配する存在になったのかという問いに対して「二足歩行」を選択したこと、と答えたことである。さまざまな動作をするうえで不安定であり、骨格上からも不自然である二足歩行はしかし、ゆっくりではあるが長時間の移動を可能にした。これが人類の人類たるゆえんである、と彼は語っていた。
     インドネシアから石垣島への旅は、「日本人はどこから来たか」というテーマで考えうるいくつかのルートの一つで「新グレート・ジャーニー」と名付けられている。手作りカヌーに帆をつけ、2008年にプロジェクトをスタート。航海は風待ちや手漕ぎも入れ3年がかりで達成された。「手作り」は、木を加工するための刃物も砂鉄からたたら製法を用いて作るという徹底ぶりで、船体も自然林から切り出した。帆もヤシの繊維を編んだものという。
     面白かったのは、鉄を作った経験談。5㌔の工具を作るのに120㌔の砂鉄と300㌔の炭を要し、炭を作るのに岩手の赤松3㌧を要したという。そして、歴史を見ればわかるが、一度「鉄」を手にした人類が鉄を捨てることはなかった。このことは地球のありようを何らかの形で変えていく。ジャレド・ダイアモンドの「文明崩壊」(草思社)は人類が森と共存しながら森を消滅させたことが文明を崩壊させた一因になっていると指摘するが、そのことを連想させる。
     最後に、さまざまな「ジャーニー」の体験を踏まえて「自然は知ることはできても操作することはできない」という関野氏の言葉が印象的だった。


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    講演する関野氏
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    インドネシア~石垣島の旅の紹介の一場面


    オバサンたちのサバイバル~映画「滝を見に行く」 [山の図書館・映画館]

    オバサンたちのサバイバル~映画「滝を見に行く」


     紅葉と滝を見に行くツアーに集ったオバサン7人。ところが、ガイドは新米だった。山中でコースを見失い、「様子を見に行く」と行ったきり帰ってこない。残された7人は待ちくたびれ、ついに下山を決断する。ところが途中で、草生した「下山近道」の標識を見つけたから、話がややこしくなる。一人がコンパスを取り出し「方向は合ってる」と下り始めたものの、途中で橋が流されていて立ち往生。やむなく引き返すが、もう方向が分からない…。

     ストーリーは極めて単純だ。元々見知らぬ7人が山中で迷い、サバイバル生活を余儀なくされる。その中で、それぞれの横顔が垣間見える。妻子ある男性との恋に疲れた女。教え子との長い恋の末、結婚したが別れてしまった女。家庭にこもりきりの生活を見かねた娘に勧められてツアーに参加した女。しかし、みんなオバサンである。そんなたたずまいの中で、のっぴきならない人生とタダモノでない存在感が、それぞれの背中に見え隠れする。人間観察の妙である。

     そして、最後はきちんと「よかったね」というところに落とし所が設けられている。オバサンたちが山中で縄跳びをするシーンがあるが、それを見ていると、この山の中はオバサンたちの楽園と化してしまったのだろうか、とさえ思える。案の定、だれかが「救援が来なければみんなでここに住めばいいのよ」というが、「それはごめんだね」とだれかが返す。

     1時間半ほどの作品で、何が言いたいわけでもないが、なぜか観ているものを楽しくさせる映画である。2014年、沖田修一監督。

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    究極のサバイバル記~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    究極のサバイバル記~山の図書館

    「エンデュアランス号漂流記」(アーネスト・シャンクルトン著)

     アーネスト・シャンクルトンは英国の探検家である。1901年にスコット大佐のディスカバリー号による南極探検に参加、極点まで120㌔に迫ったが、飢餓と吹雪で引き返した。アムンゼンが極点に到達、スコット隊が涙をのみ、さらには大量の犠牲者を出したテラ・ノヴァ号探検の10年ほど前のことである(この時のスコット隊の無残な旅は、チェリー・ガラード著「世界最悪の旅」に詳しい)。

     シャンクルトンは、191412月、南米ホーン岬の東、南ジョージア島にいた。到達が果たせなかった南極の極点は3年前、ノルウェー人によって踏まれていた。やむなくこの英国人探検家は、南極大陸横断へとプログラムを変更する。しかし、隊は横断どころか、雪と氷の大陸に近づくことさえできなかった―。

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     探検記としては、まれにみる面白さである。要素は二つある。一つ目は漂流記、航海記、さらに南ジョージア島を横断する際の徒手空拳、山岳地帯突破=登山記=のおまけまでついているからだ。これほど最悪の環境を突破し生き延びたのが不思議に思えるぐらいの究極のサバイバル記録なのである。二つ目は、こうした厳しい自然環境と、それに立ち向かう人間たちの、ときにユーモアあふれる行動ぶりを鮮やかに描き出すシャンクルトンの筆力である。その場その場のシーンがページの向こうに立ちあがり、読むものが南氷洋に漂う巨大な氷上にいて風雪にさらされているかのような気分にさせられる。

     南ジョージア島を出た隊は、やがて船は浮氷帯に入り、航行は困難を極め、動くことさえままならなくなる。氷が船体を締め付け不気味な音を立てる。氷山とともにエンデュアランス号は漂流を始める。10カ月を経て、船はついに氷の海へと沈む。南ジョージア島を出て1年後のことである。シャンクルトンたちは氷上にテントを張り、漂流を続ける。

     氷山は北上する。気温の上昇とともに、当然のことながら氷は割れ小さくなる。その上で生活する人間たちの生命も危うくなる。ホーン岬の南、エレファント島上陸は、それから数カ月後のことである。この島から、小さな救命ボートを使っての南ジョージア島帰還が決行される。乗り組むのは6人。島に残るのは22人。

     いったんは島の小さな湾にたどり着くが、そこから人間の居住空間まで向かうには山岳地帯と氷河を越えなければならない。4500フィートというから、標高1000㍍余りの山である。しかし、写真で見れば、究極の鋭角を持つ岩稜帯である。これを素手で越えたとすれば、驚くばかりだ。

     シャンクルトンの隊は、3人の犠牲者こそ出すがなんとか生還を果たす。第1次大戦に重なるころ、600日にわたるサバイバルである。これほどの生への執念、頭が下がる思いだ。そして、面白い。

        ◇

    「エンデュアランス号漂流記」は中公文庫、定価781円(税別)。初版第1刷は20036月。


    エンデュアランス号漂流記 (中公文庫BIBLIO)

    エンデュアランス号漂流記 (中公文庫BIBLIO)

    • 作者: アーネスト シャクルトン
    • 出版社/メーカー: 中央公論新社
    • 発売日: 2003/06
    • メディア: 文庫

    人はなぜ秘境に向かうか~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    人はなぜ秘境に向かうか~山の図書館

    ◇「定本 日本の秘境」岡田喜秋著◇

     著者・岡田喜秋は1947年に大学卒業後、日本交通公社に入り、1959年から12年間、雑誌「旅」編集長を務めた。その際、全国の秘境を訪ね歩き、紀行文を発表。それらをまとめて1960年に上梓した。その一冊が、半世紀を経て再編集、刊行された。

     したがって、秘境取材が行われたのはほぼ昭和30年代前半(19551960年)になる。もっとも、著者自身があとがきで記しているところによれば、「旅」編集員になった1949年ごろから取材はしていたらしい。正確には執筆作業が昭和30年代前半ということになる。

     なぜ、この本の取材・執筆時期にこだわるかといえば、ちょうどそのころが60年安保後、「所得倍増」を池田勇人内閣が掲げ、日本が高度経済成長、経済大国への道を歩み始めたころにあたるからである。都市だけでなく、地方や中山間地では古い民家が取り壊され、安っぽいつくりのプレハブ住宅が続々と建ち始める。そんな時期に、道さえおぼつかない山中や渓谷をほっつき歩いた人物がいて、好奇心あふれる読み物をものしていたのである。

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     「山」「谷」「湯」「岬」「海」「湖」の6大テーマに沿って、それぞれ三つの紀行文、計18編が収められている。

     個人的な関心もあって、テーマとしては「山」が一番面白い。特に、マムシの恐怖におびえつつ、道らしい道もない山稜を行く「乳頭山から裏岩手へ―秘話ある山越え―」は秀逸で、著者の心細さがひしひしと伝わる。そして、たどりついた山中の温泉宿は雫石からざっと八里、冬はバスの終点から歩いても、とても一日ではたどり着けない難所である。そこを管理する若夫婦の思いに触れた個所などは、とても心が痛む。しかし、著者がさりげなく書くように「彼女は今年も冬を越すのである」。

     さらに山路をすすむ著者は、ある峠で武骨なまでに頑丈そうな無人小屋を発見する。「利用者の少ないこんな峠道に山小屋を建てるなどということは、戦後の世知辛い人情からは生まれない。そんなところに、私は南部の人々の心根をよみとった」と著者は書き、「最後の下り」を「快い」気分で下っていく。

     八甲田山での、あるスキーヤーの遭難を機に、冬場の雪上車による運行をやめてしまった温泉宿の主人の思いをつづった「酸ケ湯の三十年―冬の秘話―」も味わい深い。この章を、著者はこう閉じている。

     ――酸ケ湯の三十年は日本の風土の特殊性と、貧しい政治感覚と人間の軽薄さについて多くの教訓を秘めている。

     ところどころに挟まれた、鮮明とは言い難いモノクロ写真とともに、滋味あふれる文章が心にしみる一冊である。消えゆくものへの郷愁ではない、時代に対する視点と批評が、文章に込められている。だから読み終えて、高度経済成長の初期に著されたこの書が、今という時代に重みを持ち始めていることに、どうしても思いをはせてしまう。

     あらかじめ整備されて快適な温泉地や山間の宿をわれわれは求めがちだが、著者はそんなものにはおそらく目もくれず、全国の温泉を訪ね歩いた結果、温泉の最初の発見者は蛇、鶴、猿、熊などであった、と書く。その筆さばきには、まぎれもなく自然への畏敬が籠っている。

        ◇ 

     「定本 日本の秘境」はヤマケイ文庫、950円(税別)。初版第1刷は20142月。これまで東京創元社(60年)、角川文庫(64年)、スキージャーナル(76年)で刊行された。

    定本 日本の秘境 (ヤマケイ文庫)

    定本 日本の秘境 (ヤマケイ文庫)

    • 作者: 岡田喜秋
    • 出版社/メーカー: 山と渓谷社
    • 発売日: 2014/01/17
    • メディア: 文庫

    探検家であり、作家であるということ~角幡唯介の講演を聞く [山の図書館・映画館]

    探検家であり、作家であるということ~角幡唯介の講演を聞く

     「空白の五マイル」や「アグルーカの行方」の著作を持つ探検家・角幡唯介氏の講演(広島県山岳連盟主催)が10月4日、広島市内であった。強靭な肉体で次々と過酷な探検をこなすが、同時に惹かれるのは(こんな言い方をすると誤解されそうだが)、探検家〝らしからぬ〟生と死への深い洞察と、しかもその体験を重層的に文字に定着する、稀有な能力のためである。

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     講演は1時間余りで、「空白の五マイル」の原体験であるツアンポー峡谷探検のこと、そこからニューギニア探検(途中で挫折したらしい)をへて北極探検へと向かった経緯、そしていったんは、荻田泰永氏との1600㌔踏破=フランクリン隊が見た極北の風景=「アグルーカの行方」で結実した北極の雪原行に再び向かうことになった経緯などに及んだ。とてもこの時間枠に収まるわけはなく、最後は押せ押せになったが、それなりに面白くはあった。

     彼は来年、グリーンランドのシオラパルクを出発点に北極圏を1200㌔~1300㌔踏破するという。3月には現地へ行き、夏に食糧をデポ、冬の北極圏を歩く。その際のキーワードとして三つをあげた。一つは「極夜」。終日夜であるとはどういうことか、体験したい。一つは「単独」。「空白の五マイル」でも、彼は単独行であることで生と死を見つめるという得難い経験を手に入れている。「自然との没入感」と語るが、この思想は彼の一連の作品に濃い縁取りを与えている。そして「犬を連れていく」―。理由を雄弁には語らなかったが、単独行による閉鎖された思考サイクルに陥らないための「保険」であるように見えた。

     北極圏の氷床は、いうまでもなく何もない平らな雪原であり、地図とコンパスによる位置確定は困難である。しかし、現代にはGPSがある。にもかかわらず、今度の北極行では、GPSではなく六分儀を使って位置を割り出すという。星の位置を測り、そこから現在地を確定する。なぜそんなことをするのか。「冒険とはナビゲーションが面白いのであり、GPSにはその醍醐味がない」と彼は話した。「それでは極地の外にいる感じになる」―。ここに彼の冒険・探検への哲学がのぞいている。

     もう一つ、講演の中で「犬との対話」に多くの時間を割いた。しかし、それは人間と犬の愛情物語でなく「格闘談」である。あるのは、愛玩動物としての犬ではなく過酷な環境の中での人間と犬の関係のありようである(こうした関係は、たしか本多勝一氏も、エスキモーのルポの中で触れていた)。生と死が極限的に問われる中で、人間と動物の命のやり取りがどうとらえられるべきかについては、「アグルーカの行方」にも麝香牛を殺す印象的な場面がある。

     冒険や探検について「スポーツ的な部分が思考に合わない」と語る角幡氏の言葉は、まぎれもなく肉体(=探検家)と精神(=ライター)という二つの得難い能力を手に入れているかに見えた。

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    空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)

    空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)

    • 作者: 角幡 唯介
    • 出版社/メーカー: 集英社
    • 発売日: 2012/09/20
    • メディア: 文庫

    アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極 (集英社文庫)

    アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極 (集英社文庫)

    • 作者: 角幡 唯介
    • 出版社/メーカー: 集英社
    • 発売日: 2014/09/19
    • メディア: 文庫

    山が主役と思えば楽しめます~映画「春を背負って」 [山の図書館・映画館]


    山が主役と思えば楽しめます~映画「春を背負って」

     原作は笹本稜平。彼にしては、作品の舞台を高山ではなく身近な低山、奥秩父に求めている。もちろんそこには彼流の計算があり、壮絶な山岳風景を硬質な文章で表すことで作品の重量を出すのではなく、人間の情の通いあいの部分でドラマの重量を出そうとしていたと思われる。主役はあくまで人間で、山は脇役であった。

     しかし、映画では山岳と人間ドラマの位置関係ががらりと変わっている。もちろん、それは善し悪しの話ではなく、文字媒体と映像媒体の違いを考えてのことだろう。

     監督は山岳撮影で定評のある木村大作。2009年の「剱岳 点の記」も、新田次郎のしっかりとした原作がありながら、主役は剱岳そのものだった。

     外資系会社(と思われる)のトレーダーだった長峯亨(松山ケンイチ)が、山小屋を営む父(小林薫)の突然の死に直面し、会社を辞めて小屋を引き継ぐところから始まる。そこに、かつて父に助けられ小屋に住みついた高澤愛(蒼井優)や、大学の山岳部で父の後輩だったゴロさん(豊川悦司)、そして亨の母・菫(壇ふみ)らが絡み、亨もなんとか山小屋の主人らしくなっていく…。映画「春を背負って」は、ざっとこんなストーリーである。亨が、転身にあたってほとんど葛藤を見せないこと、その後も、ほぼ順風満帆であることなど、ドラマ的な奥行きはない。

     しかし、それでいいのだろうとも思う。これだけの大自然を見せられた時、人間の存在や感情の起伏が織りなすドラマなど、あまりにもちっぽけだからだ。

     要は、山小屋の周辺に広がる四季折々の山岳風景を楽しめばいい、そんな映画である。原作の後景にあった奥秩父が立山連峰・大汝山に置き換えられた時点で、例えば「山での死」を常に介在させながら人情話を重ねていく、といった原作の色彩は望むべくもないのだが、逆に言えば、これほど単色で一直線のストーリーだからこそ、3000㍍級の山々の雄大な景色が我々を楽しませてくれる、ということであろう。

     
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    何かが違った~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    何かが違った~山の図書館

    「世界最悪の旅 スコット南極探検隊」(チェリー・ガラード著)
     

     ノルウェー人のアムンゼンが南極の極点に到達したのは19111214日だった。それより約1カ月遅れの翌年117日、英国人スコットが極点に到達。しかし、二つの旅は鮮烈に明暗を分ける。アムンゼンが無事に帰還したのに対して、スコット隊は極点からの帰途、5人全員が死亡する。

     スコット隊のあまりに悲惨な旅を、探検隊の一員だったチェリー・ガラードが再現したのがこの一冊である。

     191010月、メルボルン港に入ったテラ・ノバ号(スコット隊の乗船)に一通の電報が舞い込む。「余は南極に向かわんとす。アムンゼン」―。これがすべての歯車を狂わせる発端となる。その最初の動きは翌年2月、南極大陸に貯蔵所を建設したスコット隊が、目と鼻の先にアムンゼン隊の船を見つけたことに始まる。事実上、極点レースがスタートするが、むろん今日のような快適な環境ではない。ガラードは、その模様を描いている。気温はマイナス50度前後、進む距離は1日4㌔から5㌔。夕刻には凍った寝袋に潜り込む。そして「おそろしいけいれん」を起こす。事態は悪化し寝袋の中にいても凍傷を起こすようになる。

     隊は4人ひと組で構成された。しかし、スコットは極点アタックチームを5人にした。1人でも多く連れて行こうと思ったのかもしれない。しかしこれも、歯車を狂わせる一因になる。食糧など物資の量、テントの数、ソリの大きさ、すべてがそれまでの計算と違ってくる。スコット隊の極点到達は12117日。アムンゼン隊は既に1カ月前に到達を果たしている。ここからスコット隊の絶望的な帰還が始まる。そして3月27日には、全員がテント内で死に絶える。

     
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     ガラードが記す遭難隊発見の模様。

     ――ライト(注:隊員の一人)はまっすぐにこっちへやって来た。「テントだ」。(略)なにげない雪の荒地であった。

     ガラードは続いて、隊員たちが残した日記を明らかにする。向かい風でソリは遅々として進まず、1日の行程はわずか数㌔。隊員は次々と凍傷で足をやられていく…。

     何が違ったのだろうか。アムンゼン隊はまっすぐ極点に向かい、史上初めて到達し、ひとりの生命も失うことなく戻ってきた。スコット隊は多くの困難と闘い、多くの生命を失い、極点初到達の栄光も担うことがなかった。

     ガラードは「アムンゼン隊が個人的資質が高かったと結論付けるのは早計」としたうえで、山のように「もしも」を連ねる。もしアタックが4人だったら、もしスコット隊が先に拠点に到達していたら、もし余分の燃料があったら…。しかし、事実は変わらない。

     そしてこの一冊を、ガラードは次の言葉で結ぶ。

     ――探検とは知的情熱の肉体的表現である。

         ◇

    「世界最悪の旅」は中公文庫、838円(税別)。初版第1刷は2002年。チェリー・ガラードは1886年、オックスフォード生まれ。スコットを隊長とするイギリス南極探検隊に動物学者として参加し、帰還を果たす。1959年没。


    「百年前の山を旅する」(服部文祥著) [山の図書館・映画館]

    「百年前の山を旅する」(服部文祥著)


     著者は山岳雑誌「岳人」編集部に所属しながら
    K2登頂など、いわゆる先鋭的な「登山」を経験。その後、装備を切り詰め、食糧もテントも持たず山に入る「サバイバル登山」を始めた。なぜか。その動機の部分が、この一冊に込められている。

     「序」にあたる「過去とシンクロする未来」から。

     ――登山とは、あるがままの大自然に自分から進入していき、そのままの環境に身をさらしたうえで、目標の山に登り、帰ってくることだ。自分の力ではできないことを、自らを高めることなしに、テクノロジーで解決してしまったらそれは体験ではない。(略)だから登山者はできる限り生身であるほうがいい。昔の山人のように――。

     現代の登山者である我々は、雨が降ればゴアテックスの雨着を着る。ガスコンロを使えば、即席で胃袋を満たせる食糧もある。暗くなれば周囲を照らすヘッドランプもある。軽量で快適なテントやシュラフもある。これらが進歩すればするほど、山の闇や天候不順、食糧が手に入れられなかった結果としての空腹感、それらがもたらす恐怖と距離を置くことができる。それでいいのだろうか。山はきちんと畏怖すべき存在ではないか。そうでなければ山と向き合ったことにならないのではないか。そう言っている。

     
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     1909年、田辺重治と小暮理太郎が高尾から奥多摩へと縦走した。日本での縦走の記録としては最も古いものだという。「天幕も寝具もリュックも水筒もなく、肩掛け鞄に米と佃煮とナベだけを入れ」、現代の感覚からすれば「無謀登山」とも思える山行を服部は実行する。

     「私達の辿っている尾根が、やがては三頭山に連なることが進むにつれ明らかになった」―。

     100年前のこの記述に、著者は「しびれた」と書く。地図が一般に手に入るようになったのは1913年。二人は地図も持たず縦走に挑んだのだ。このように、ほぼ徒手空拳で山に挑んだ昔の人たちは肉体的、精神的に強かったのだろうか。服部の見方は少し違う。

     ――肉体的なちがいではなく、その肉体をどう使うのかという世界観が現代と100年前とは根本的に違うのだ。

     たとえば二人は奥多摩から青梅まで半日で歩き、帰京している。現代人なら苦痛だろう。しかしそれは、単に鉄道が青梅までしか通っていなかったからではないか。彼らにとっては当たり前だっただけで「強さ」とは関係ないと言う。ただ、文明の利器に頼る我々の山行と、自力だけを頼って山に入る彼らと、どちらが自由だろうか、というのが著者の根本的な問いかけである。

     この一貫した問いのもとに、1915年の笛吹川遡行(「日本に沢登りが生まれた日」)、1912年のウェストン、上條嘉門次らの奥穂高岳南稜登攀(「ウェストンの初登攀をたどる」)などが追体験される。

     解説は角幡唯介。「人はなぜ山に登るのか。(略)この解答困難な謎にあえて正面切って挑み、その答えにかなり肉薄している数少ない登山家」としたうえで「(服部が)現代登山の枠組みの外側に飛び出すことを選択」することで、我々は「現代社会の表裏をあぶり出す、きわめてすぐれた文明批評」を手に入れたと指摘する。


     「百年前の山を旅する」は新潮文庫。初版第1刷は201411日。630円(税別)。著者は1969年神奈川県生まれ。96年から「岳人」編集部。著書に「サバイバル登山家」など。

    百年前の山を旅する (新潮文庫)

    百年前の山を旅する (新潮文庫)

    • 作者: 服部 文祥
    • 出版社/メーカー: 新潮社
    • 発売日: 2013/12/24
    • メディア: 文庫



    「山に入る日 山野彷徨から瞑想的登山へ」(細田弘著) [山の図書館・映画館]

    「山に入る日 山野彷徨から瞑想的登山へ」(細田弘著)


     最近、相次いで山ヤの本を読んだ。一冊は「初代 竹内洋岳に聞く」(塩野米松著)で、もう一冊が、この「山に入る日」である。率直に言って「竹内―」は期待外れであった。むろん、竹内は世界8000㍍峰14座を、日本人として初めて完全登頂した登山界の超人である。しかし、この本には、山をめぐる複雑でほとばしるような思いも、同じく8000㍍峰を完全登頂したラインホルト・メスナーのような晩年の諦念めいた想念もない。

     例えば、竹内は山の魅力についてこう語っている。「何が面白いのって?(略)全体から言えば、限りなく魅力的で、面白いものですよ」。これだけである。インタビュアーの腕もあるのだろうが、やはり物足りない。

     「山に入る日」の著者・細田は、竹内とは正反対の登山者である。奥付の経歴を見ると、高校時代から登山を始め、若いころは岩もやったらしい。30歳前後の6年間は、世界を放浪したとある。そして50歳を過ぎての登山再開。この書では、いわゆる名の通った高山はほとんど登場しない。2000㍍に満たない山々で、時にみじめに敗退する齢60を過ぎた単独登山者の思いがつづってある。その中で、岩壁を颯爽と登り尾根の風に吹かれながら疾走するだけが登山の魅力ではないと著者は繰り返し語っている。

     ――私の年齢では何日で歩くかではなく、歩き通すこと自体が目的になる。(大峰山奥駈け日記)

     そして、

     ――体力のある順に四人がばらけた。私は三番手である。

     となる。「四人」は、たまたま山でであった間柄である。この文の最後は、こう締めくくってある。

     ――おそらく熊野奥駈道を歩ききることの意味(意義)は、この風を体感することにある。

     書の全体は、第1章で単独登山の魅力、第2章で山をめぐる瞑想、第3章で、やや本格的な山行記、となっている。第2章、表題になった「山に入る日」は、なかなか魅力的な書き出しである。

     ――ザックを背にして山に向かう特急列車に乗るとき、後ろめたいような、こそばゆいような微かな快感を覚える。そして、(略)ゆっくり背凭れに身を委ねながら、じんわり湧いてくる解放感に浸る。

     
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     だれもが味わった感覚ではないだろうか。そして、

     ――気分転換なら小さな山がいい。でも心に重荷があるならば、大きな山のほうがいい。それだけ多くの汗を流す必要があるからだ。

     著者はここに、旅と登山の違いを見いだす。旅には、登山のような充足感や心の澱のようなものを昇華する力はない、という。この章で面白いのは「兵法者と登山者」という文章である。登山という行為は、剣豪小説に出てくる兵法者の心根に酷似している、と著者は言う。そのうえで「新説 佐々木小次郎」(五味康祐)を引く。

     ――兵法者が負けるを覚悟で仕合に臨むことは断じてない。(略)同様に勝つと分かって仕合にのぞむことも、ない。(略)勝つとも負けるとも予測しがたい或る不可知なものを相互の剣理に感じとった時、はじめてその不可知に生命をかけて仕合をするのである。

     分かる気がする。

     第3部では、「西海谷三山縦走記」がとび抜けて面白い。新潟・雨飾山の北方に連なる魁偉な山々。1500㍍ほどの山並みが、著者の心をわしづかみにする。一度の撤退の後、ある年の10月下旬に雨飾へと向かう。三山の最初の鋸岳手前で山座同定をしたら、鋸岳と思ったのは、実は鉢山と分かる。鬼ケ面山と思ったのは阿彌陀山だった。しかし、なんとおどろおどろしい山名の連なり。

     風雨の吹きすさぶ尾根にテントを張って沈殿し、痩せた水平路を行き、切戸(キレット)を抜けて岩壁に取り付き、ずり落ち、それでも登り切る。こんなシーンが続く。

     決して成功の物語ばかりでない。断念に次ぐ断念。「遥かなる剱岳北方稜線」もそうした文章である。時に、遭難の危険性にさえ直面する。だがその果てに、著者はたどり着いたキャンプ場のベンチで、足元に落ちた蝉と蟻の行列を見ている。そんな心境になりたいものだ。

    「山に入る日」は白山書房、1800円(税別)。初版第1刷は2013101日。著者の細田弘は1946年生まれ。高校卒業と同時に秀峰登高会。奥多摩で宙づり事故にあい単独行に。世界74カ国を放浪した後、51歳から山旅登山を再開した。著書に「夢想の峯々」。

    山に入る日―山野彷徨から瞑想的登山へ

    山に入る日―山野彷徨から瞑想的登山へ

    • 作者: 細田 弘
    • 出版社/メーカー: 白山書房
    • 発売日: 2013/10
    • メディア: 単行本


    極地をトレースする豊饒な文体~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    極地をトレースする豊饒な文体~山の図書館


    「アグルーカの行方」(角幡唯介著)


     世界地図を広げてみる。ヨーロッパからアジアへと向かう航路を探す。アフリカ大陸西岸を南下して喜望峰を回るか。地中海を東進して中東を通過するか。南米大陸の東を通り、マゼラン海峡を抜けるか。しかし、15世紀から17世紀にかけての大航海時代を経て、それらはスペイン、ポルトガルが押さえていた。遅れてきた大国イギリスはそこで、北極海の通過をめざす。19世紀に始まった北西航路探検である。ヨーロッパから北西を目指して、氷の海に乗り出す。しかし、その探検史を見るといずれも2~3年の期間を要している。発達途上にあった内燃機関による小さな船と、保存技術が確立されていない膨大な食糧。20世紀初頭にアムンゼンが完全航海するまで、その探検史には悲惨な事実が詰まっている。


     21世紀に入ってなお地図上の空白地帯が存在することを知らされたのは「空白の五マイル」を読んでであった。世界最大の規模と言われるチベットのツアンポー峡谷。著者の角幡唯介は20代から30代初めにかけ、この地に3度踏み込む。そして探検へと向かう中国での長い列車の旅で、角幡が手にした1冊の本は「世界最悪の旅」だった―。


     アムンゼンと、南極点初到達を争って敗れた英国ロバート・スコットの探検記だ。スコットら5人は失意の中で基地に戻る途中、極寒のブリザードにのまれて落命する。アプスレイ・チェリー=ガラードの筆になる探検文学の古典は、角幡の心に何かを植え付けたにちがいない。この時から13年後、角幡は「極地」へと向かう準備を始めている。

     北西航路探検の歴史の中でも、とりわけ悲惨だったのは1845年から48年にかけての、ジョン・フランクリンの一行であろう。氷に閉ざされ、絶望的な飢餓の中で129人全員が死亡したと伝えられる。角幡は、知人で北極探検家である荻田泰永とともに、このフランクリン隊のルートを追って103日間1600㌔を歩きとおす。
     

     ――ただ、ホールの集めた証言が、根拠が薄いと簡単に切って捨てることができるようなものではないという気もしていた。だから思ったのだ。だとしたら、行ってみるべきなのではないだろうか。
     

     ホールとは、フランクリン隊が行方不明になって15年後、なお隊のメンバーの生存を信じてイヌイットから証言を集めた探検家である。これに対して否定的な見解を示したのは、歴史学者のリチャード・サイリアクス。しかし、ホールが集めた証言の中で、次のような表現が角幡の心をとらえる。
     

     最後にアグルーカと二人の仲間は不毛地帯に向けて旅立った。
     

     彼もまた、その風景の中を旅したいと思う。アグルーカとは、イヌイットの言葉で「大股で歩く男」。背が高く、果断な性格の人物に付けられることが多い。必ずしも、特定の人物を指すものではないが、イヌイットに語り継がれるアグルーカは、果たしてフランクリンか、あるいはフランクリンの死後に隊を率いたクロージャーを指すのだろうか。ここで、一つの事実が交錯する。フランクリンが遭難したころ、時期的にも地域的にも最も近くで活動していた探検家ジョン・レーが「アグルーカとは自分のことである」と、ある新聞で発表するのである。

     フランクリン隊が体験したであろう飢餓の果てのカニバリズム、雪原の麝香牛母子と角幡、荻田の生と死のドラマ、荒涼たる風景を行く3人の男―彼らの一人はまぎれもなく「アグルーカ」と呼ばれた―の、謎に満ちた行方。「空白の五マイル」から、さらに豊饒さを増した角幡の文体が、不毛の極地をトレースする。

     

     
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     「アグルーカの行方」は集英社刊。1800円(税別)。初版第1刷は2012930日。角幡唯介(かくはた・ゆうすけ)は1976年、北海道芦別市生まれ。早大政経学部卒。20022003年にチベット・ツアンポー峡谷の未踏査部を探検。朝日新聞記者を経て10年「空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、11年に第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞。次作の「雪男は向こうからやって来た」(集英社)は12年、第31回新田次郎文学賞。





     


    北アの黎明期を生きた歌人~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    北アの黎明期を生きた歌人~山の図書館


    「山を想えば人恋し」石原きくよ著

     

     副題に「北アルプス開拓の先駆者・百瀬慎太郎の生涯」とある。慎太郎は信濃大町の老舗旅館の息子として生まれ、歌人にして登山家。しかし、彼のつくる短歌は素直そのもので、むしろ次のフレーズでよく知られている。一度は耳にしたことがあるだろう。

     山を想えば人恋し

     人を想えば山恋し

     今で言えばキャッチコピーである。


     慎太郎が旅館「対山館」の跡取りとして生まれたのは1892年、今から120年ほど前のことである。この年、日本の山を世界に紹介したウォルター・ウェストンが槍ヶ岳に登頂。翌93年には対山館に宿泊、針ノ木岳を目指している。この年にはウェストンの前穂高登頂に上條嘉門次が同行。二人の交友がその後、語り継がれる。慎太郎は、文字通り北アルプスの黎明期に生まれたといえよう。

     中学を卒業した慎太郎は、家業を継ぐ。そのころつくった歌がある。

     雪の嶺に吹きつけられし雪あまたにごりて暗き高原の街

     鬱勃とした心情が込められている。そんな彼が、人が変わったように仕事熱心になる時があったという。山を目指す人たちが宿を求めて来た時である。このころ、慎太郎は忘れられない経験をする。針ノ木峠から黒部谷を経て立山へと抜ける山行である。案内人は遠山里吉。通り名は品右衛門。針ノ木近辺に関しては嘉門次さえ一目置く存在であったという。191010月、町は秋の盛りだが、峠は初冬の荒涼とした風景だったと著者・石原は書いている。

     13年夏、槍ヶ岳から上高地に降りた21歳の慎太郎は島々の旅館でウェストンと出会う。この偶然をきっかけに、二人は親交を深める。第一次大戦が始まった14年にウェストンは対山館を訪れる。英国への帰国を決意し、日本の山々に別れを告げる旅の第一歩として針ノ木峠を訪れるためであったという。ウェストンは15年、日本を離れる。

     慎太郎は17年に大町登山案内者組合を結成する。日本で初めての山岳案内人の組合である。そろいの法被には「日本アルプス」の文字が染め抜かれた。ウェストンがヨーロッパに紹介し、登山家で文筆家の小島烏水が国内で定着させた名称である。当時の慎太郎は烏水に心酔していたようだ。案内者組合の結成も、烏水に触発されてのことである。

     そのうち、国内にスキーが普及し始めると、冬季北アルプスに関心が向き始める。23年3月、富山から針ノ木峠を越え大町に抜ける慎太郎らの山行は記録映画として撮影され、社会的なニュースになる。それにつれて冬山を目指す人たちが増え、避難小屋を求める声が、登山者たちから高まる。慎太郎が針ノ木雪渓と扇沢の間に大沢小屋の建設を決めたのもこのころである。赤字覚悟であったという。

     2712月大みそか、早大山岳部の遭難事故が起き雪崩で4人が生き埋めになった。捜索態勢づくりは進まず、対山館が捜索隊を出し捜索本部となった。遺体が見つかったのは翌年5月だった。しかし、この遭難事故で避難拠点としての大沢小屋の価値が再認識された。慎太郎の手によって雪渓の上部に針ノ木小屋ができたのは、1930年のことである。


     著者は北アルプス黎明期に深くかかわった人物として上條嘉門次、百瀬慎太郎を挙げている。おそらくこの二人の間にいるのが、日本アルプスを世界に知らしめたウォルター・ウェストンだろう。信州と越中を結ぶ要路として古くから知られてはいたが難所のゆえに越える人の少なかった針ノ木峠を、今日のように魅力的なアルペンルートにしたのは百瀬慎太郎の功績である。しかし、その足跡を追った著書はほとんどない。石原きくよのこの書は、貴重な1冊といえる。
     


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     著者石原きくよは大町市在住、日本児童文学者協会所属。「山を想えば人恋し」は郷土出版社(松本市)刊。1600円(税別)。初版第1刷は1998年。

    生と死の分水嶺を描く~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    生と死の分水嶺を描く~山の図書館

    「運命の雪稜 高峰に逝った友へのレクイエム」神長幹雄著

     1000㍍に満たない、ある低山での体験だ。頂上から、登ってきた道を下りようとした。そのルートの横には巨木の陰にもう一本のルートが、あたかも山裾まで続くかのように口を開けていた。のぞいてみると、道幅は案外と広い。ここを下ってみるか。たいした考えもなく足を踏み出した。しばらくは快適だった。落葉樹林をすり抜けていく。しかし、踏み跡はどんどん薄くなり、ついに杉の倒木が行く手を阻んだ。なおもそれを乗り越えると、前方は崖だった。もう引き返すしかなかった。来た道を登りはじめた―。そのつもりだった。しかし、それは来た道ではなかった。ひとり山中で方角を見失ってしまった。途方に暮れていると、幸運にも1人の登山者と出会った。位置を聞くと、なんと下山ではなく隣の山へと向かっていた。もしあのとき、登山者と出会わなかったら―。

     
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     「運命の雪稜」の巻末には、著者と本多勝一の対談が収録されている。この中で本多は、困難さを追求するアルパイン登山のありように対して「比喩としての『定向進化』」という視点を示している。これに著者は「ここ20年ほどの遭難は(略)ある種の慣れから危険予知能力が鈍くなる可能性を示唆している」と応じている。簡単に言えば「油断」だが、そう言ってしまえないところがある。「魔が差す」とでも言うのだろうか。

     8000㍍地帯は、死のにおいがするという。酸素濃度は地上の3分の1。そこへ意識的に足を踏み入れる。著者によれば「死と紙一重の世界」である。だれも、死にたくはない。しかし、死にたくはないという動機だけで行動すれば、こうした高山に足を踏み入れることなど永遠にない。「死」という一線を越えて、命を賭してまでそこへ向かう何かがあるはずなのである。

     鍛えられた理性でなお支配できぬ一瞬の心のすきと、抑えきれぬ情熱が織りなす結末。この二つの軸が作り出す八つのドラマが、この書を構成している。

     ナンガ・パルバットの頂上直下。中島修は高度順化の失敗からか体調を極度に悪化させていた。それを押して、一度はあきらめかけた一歩を踏み出す。永遠に戻ることのできない一歩を=「不条理の頂上台座」。

     高見和成は厳冬の大山頂上から滑落する。奇跡的に死を免れ、3日間かけて8㌔の下山を決行する。その5年後、高見は冬の大山であっけない死を迎える=「地獄谷からの生還」。

     トゥインズ主峰を狙って、佐藤正倫ら7人は快晴の雪原にトレースを刻んだ。セカンドとしてアンザイレンしていた佐藤はトップを代わるためザイルを外し、トップのすぐ後ろに着く。小さな声とともに佐藤の姿が消えたのは一瞬だった=「悔恨のヒドゥンクレバス」。

     運命のわずかな分水嶺が、生き残るものと死んでいくものを作り出す。しかし、山で死ぬ者はまだいいのかもしれない。各章ではその死を受け止め、受け入れようとする家族の姿が描き出される。中島の父は葬儀のあいさつでこう述べたという。

     ――正倫が情熱のすべてをつぎこんだ山を、私はこれから年月をかけて理解していこうと思っています。それが、正倫のなによりの供養になるのではないでしょうか。


     

     わたしたちのような低山徘徊者は特に、山で死んではいけませんね。

     「運命の雪稜 高峰に逝った友へのレクイエム」は山と渓谷社刊。1500円(税別)。初版第1刷は2000110日。神長幹雄は1950年東京生まれ。信州大卒業後、山と渓谷社入社。94年から「山と渓谷」編集長。


    人生観を山に重ねた文学者の相貌~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    人生観を山に重ねた文学者の相貌~山の図書館


    「深田久彌 その山と文学」近藤信行著


     近ごろ珍しい箱入り本である。このこと一つとっても、深田久彌に対する愛着が分かる。著者は文芸評論家であり、深田の二つの著作集に携わったと自らあとがきで書いている。一つは「山の文学全集」、一つは「山の文庫」。ともに朝日新聞社から刊行された。その著者が折々に触れた深田の「山と文学」、それに「山の文学全集」の解説を編んでこの一冊が生まれた。

     したがって、著者自身が明かしているように、やや雑多な寄せ集めの感がないでもない。その中で畢竟の文章は冒頭「深田久彌・その山と文学」で、深田文学への慈愛に満ちた視線であふれている。それは深田の終焉の地、茅ケ岳の描写から始まる。没後10年の1981年春、山麓に建てられた記念碑には次の言葉が刻まれているという(有名な言葉だが、私自身はまだ目にしていない)。


     

     百の頂に

     百の喜びあり


     

     私などは「一つの頂に百の喜び」があると思っている方だから、この言葉の深みはとてもよく分かる。そして彼は、山への情熱を次のようにも書いている。


     

     「結局私の山登りは、高村光太郎のように、


     

     山へ行き、何をしてくる、山へ行き、

     みしみし歩き、水飲んでくる


     

     それだけが全部であったようだ。せめては、私は山のような人間にならねばならぬ。山のような文章が書けるようにならねばならぬ」


     

     山のような人間にならねばならぬ―。

     この一念で、深田は膨大な、山のような文章を「みしみしと」残したのだろうか。


     

     思うのは、深田の文学者としての相貌である。彼は作家だったのか、批評家だったのか、それとも文献史家だったのか。小説家としての彼は「津軽の野づら」一連の作品で鮮烈なデビューを飾っている。しかしその後、成立過程について「揣摩臆測」がなされ、私生活の転換とともに作品は変質していく。遠回しな言い方だが、つまりは妻・北畠八穂との「合作」問題である。近藤が「(深田は、生地である)大聖寺では聖人のように扱われているが、青森に行くと泥棒呼ばわりである」と書いているように、一方で「盗作」疑惑が消えない。この説をとる代表例が北畠と同郷人である田澤拓也の「百名山の人 深田久彌伝」であろう。

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     しかし、近藤はここで「八穂は自分の筆ではひとり立ちできなかったのではないか」との見方を示し「発表は合意のもとになされたにちがいない」としている。つまり、深田の初期の文学作品は編集者としての深田と文学の才あるいはきらめきを持つ八穂との共同財産、というわけだが、深田は20年ぶりにある女性と運命の出会いを果たすことで八穂との生活に終止符を打ち「二人のかけがえのない財産」はもろくも崩れ去る。近藤はここに「作品の不幸」を見ている。

     果たして田澤と近藤のどちらの視線が真実を射ぬいているか、今となっては判別できることではないが、少なくとも近藤の視線が深田への慈愛に満ちていることは分かる。

     そのうえで近藤が、小林秀雄とも親交の深かった深田について「批評家」であるとの見方を示している点がとても興味深い。例えば「百名山」についての近藤の解説。百名山の選定基準として「山の品格、山の歴史、山の個性」をあげ「山の品格という点についていえば、深田久彌はしばしば山を人間化して眺めてきた」と書く。人生観照の視点である。小林が数々の文学作品に己の人生観を投影したように、山を通して自らを語る批評家・深田久彌を、近藤は見ている。

     小林秀雄と深田久彌の文学者としての立ち姿の同一性、とでも言えばいいだろうか。

    「深田久彌 その大和文学」は平凡社刊。2800円(税別)。初版第1刷は20111216日。著者の近藤信行は1931年生まれ。山梨県立文学館館長。著書「小島烏水―山の風流使者伝」のほか、編著として志賀重昂「日本風景論」などがある。


    深田久弥 その山と文学

    深田久弥 その山と文学

    • 作者: 近藤 信行
    • 出版社/メーカー: 平凡社
    • 発売日: 2011/12/19
    • メディア: 単行本



    人生の滋味あふれる6編~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    人生の滋味あふれる6編~山の図書館



    「春を背負って」笹本稜平著

     針の木峠に小屋を建てたのは百瀬慎太郎である。昭和2年の暮れ、これも百瀬が建てた大沢小屋を拠点に早大山岳部員がスキー合宿をしていて雪崩に襲われ、4人が亡くなった。遺体は翌年6月に見つかった。この遭難をきっかけに百瀬は針の木小屋の建設を思い立ち、昭和5年に小屋が開かれた。

     百瀬は大町の旅館「対山館」の息子として明治25年に生まれた。ウォルター・ウエストンが翌年、この「対山館」を訪れたという。歌人でもあった百瀬は後年「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」のフレーズを知人が広めたことで注目された。なかなかに味わいある人柄だったと伝えられるが、評伝は少ない。


     

     笹本稜平は、いくつかの山岳小説をこれまでに書いている。たどってみると、面白いことに気づく。最初に手掛けたのは「天空の回廊」。舞台はエベレストである。2作目は「還るべき場所」。K2で恋人を失い、再びその峰に「還ってきた」男の物語だ。3作目ではヒマラヤのカンティ・ヒマール山域を舞台に、7000㍍弱の架空の美峰「ビンティ・チュリ」を若者3人が目指す。分かるだろうか。標高が徐々に下がっている。その分、人間の物語が色濃くなっている。

     ――その小屋は、甲武信ヶ岳と国師ヶ岳を結ぶ稜線のほぼ中間から長野側に少し下った沢の源頭にあった。

     電子機器メーカーに勤める長嶺亨は、交通事故であっけなく死んだ父の、奥秩父にある山小屋を継ぐ。ふだんはホームレス生活を送り、ときおり小屋に顔を見せるゴロさんは父・勇夫と大学ワンゲルの先輩・後輩の間柄である。結局彼も、シーズン中は小屋に住みつく。父が撮ったシャクナゲの群生の写真を追ってこの山塊を訪れた若い美由紀もまた、小屋の生活に生きがいを見いだし始める。3人をめぐる人間模様を中心にストーリーが紡がれていく。

     
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     6編それぞれが水彩画のように淡いが、それぞれにしっかりと物語がある。沢で偶然見つけた白骨死体とそばに落ちていた高級時計が夫婦の哀歓を浮き彫りにする「野晒し」。事故に遭い生死の淵をさまよう夫に電源の切れた携帯で山から呼び掛ける「疑似好天」。「空を飛んできた」少女が垣間見せる大人の社会の愛憎―「荷揚げ日和」。しいて好みを言えば、前半まで怪談仕立てを思わせる「野晒し」がいい。

     ――前穂高へとせり上がる北尾根、怪異なジャンダルムの岩峰とそこから西穂高に至る鋸歯のような稜線、残雪の斑を残して優美な笠ヶ岳、その名の通り鋭利な三角錐を天に突き刺す槍ヶ岳。(「還るべき場所」)

     こうした鋭角的な描写も悪くはないが、「春を背負って」では注意深く山の情景は避けられている。むしろ、山はそれぞれの心の中に息づいているのである。と、ここまで書けば、冒頭で百瀬慎太郎のフレーズを出した意味を分かってもらえるだろう。

     難点は、女性の側が思いを寄せる、といった展開が多いことかもしれない。やっぱり男が書いた小説だね、と言われるかも。次作はぜひ、都会に住む人間たちがおりなす山岳小説を書いてほしいものです。

     「春を背負って」は文藝春秋社刊。1500円(税別)。初版第1刷は2011年5月30日。笹本稜平は1951年、千葉県生まれ。2001年「時の渚」でサントリーミステリー大賞。2004年「太平洋の薔薇」で大藪春彦賞。警察小説、冒険小説でも知られる。「還るべき場所」は6月に文庫本化された。

    春を背負って

    春を背負って

    • 作者: 笹本 稜平
    • 出版社/メーカー: 文藝春秋
    • 発売日: 2011/05
    • メディア: 単行本




    わが身をも透過する強靭な「視力」~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    わが身をも透過する強靭な「視力」~山の図書館

    「空白の5マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む」(角幡唯介)


     いわゆる冒険ノンフィクションで印象に残るシーンを一つだけ挙げろ、と言われれば躊躇なくギャチュンカン頂上直下の山野井泰史を描いた沢木耕太郎「凍」を挙げる。それはなにより透徹していて美しい。

    ――そのとき、山野井は、妙子のことも忘れ、高みから自分を見ている眼そのものになっていた。自分が、たったひとりで、頂を目指している姿がはっきりと見えた。

    ――早く頂上にたどり着きたい。しかし、この甘美な時間が味わえるのなら、まだたどり着かなくてもいい。

    ――全身の感覚が全開され、研ぎ澄まされ、外界のすべてのものが一挙に体内に入ってくる。雪煙となって風に飛ばされる雪の粉の一粒一粒がはっきりと見えるようだった。いいな、俺はいい状態に入っているな、と思った。

     たしかにここで山野井は「高みから自分を見ている眼」、言いかえれば「神の目」に近いものを得ているかのようだ。しかしこの作品、山野井と沢木という得がたい二つの才能がぶつかり合ってようやくできたものであろう。

     
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     「空白の5マイル」はチベット、ヒマラヤの麓にある「世界最大」の峡谷に踏みいった男の記録である。西暦2000年を過ぎてなお、まともな地図さえない人跡未踏の谷があるなどとは驚きだが、その地に単独で向かったというのはもっと驚きである。旅はつごう3度、試みられている。過去、ツアンポー峡谷に向かった5人の探検家と、カヌーでこの凶暴な流れを下ろうとして命を落とした日本人のエピソードを織り込み、物語は巧みに展開される。

     旅はもちろんのこと「死」と隣り合わせである。覗いた「死の淵」は、高山の美しい風景の中でのそれではない。ジャングルの中の腐った木の根に足をとられ、谷へと滑落する。不快な蒸し暑さの中で際限なくダニに襲われる。

    ――人跡未踏の空白の五マイルに下り立ったとしても、私がやっていることといえば、延々と続く急斜面で苦行のようなヤブこぎをしているだけだった。(略)楽しいことなど何ひとつないのだ。シャクナゲの発するさわやかなはずの緑の香りが、これ以上ないほど不愉快だった。


     だが、こう書いた直後に著者は「おい、おい」と独り言を漏らす。廊下状の岸壁に、巨大な洞穴がぽっかりと穴をあけ「異次元空間のような非現実的な雰囲気を漂わせて」いるのだ。あれはチベット仏教の理想郷「ベユル・ペマコ」じゃないか―。しかし、洞窟は対岸にある。入るには峡谷を大回りしなければならない。もちろん、橋など架かっているわけもなく、流れは歩いて渡れるほどやわではないからだ。著者はその旅を実行する。岩棚をたどってコンサートホールほどもある洞窟に着く。そしてそれは「空白の5マイル」のほぼ全域を踏破したことを意味する。

     だが1か所だけ、心にわだかまりを残す場所がある。「門」と呼ばれる、切り立った崖が並立する峡谷の最も狭い部分。あの上になにがあるか、見てみたい。その動機が、5年の新聞記者生活を経た著者を動かす。それが3度目の旅である。

     1000㍍の岩壁を越え、20日間を歩きとおして着いた村は廃村だった。引き返すだけの体力も食糧もない。その先の村にはたしかに人が住む気配がある。だが…。そこへたどり着くためには、ツアンポー川を越えなければならない。死の恐怖がむくむくと起きあがる。

    ――濃い緑とよどんだ空気が支配する、あの不快極まりない峡谷のはたして何が、自分自身も含めた多くの探検家を惹きつけたのか。

    ――極論をいえば、死ぬような思いをしなかった冒険は面白くないし、死ぬかもしれないと思わない冒険に意味はない。

     著者は死の恐怖に立ち向かったわが身を客体化して見ている。これは凡人にできることではない。美しい風景のためでなく、さわやかな風のためでなく、ひとはなぜ未踏の地を目指すか。自分自身を透過してその答えを見つけようとするこの作業は、ツアンポー峡谷の踏破にもまして驚嘆に値する。そしてその作業は「凍」のように二つの才能によってではなく、たった一つの才能でなされている。

     「空白の5マイル チベット、世界最大のツアンポー川に挑む」は集英社刊。1680円(税込)。初版第1刷は20101122日。著者の角幡唯介は1976年、北海道生まれ。早大探検部OB。200203年、ツアンポー川峡谷の未踏査部を単独で探検。03年朝日新聞社入社、08年退社。09年、3度目のツアンポー川踏査。2010年、この作品で第8回開高健ノンフィクション賞。

    空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む

    空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む

    • 作者: 角幡 唯介
    • 出版社/メーカー: 集英社
    • 発売日: 2010/11/17
    • メディア: 単行本



    山の図書館~「単独行者 新・加藤文太郎伝」谷甲州著 [山の図書館・映画館]

    山の図書館~「単独行者 新・加藤文太郎伝」谷甲州著  


     「孤高の人」(新田次郎著)は長い間、私の愛読書であった。常人ではない足跡にあこがれたのである。加藤文太郎のように歩きたい。そう思っていた。いつしか、私の山を歩くスタイルも「単独行」になっていった。しかし、加藤文太郎のような「超人」にはなれなかった。

     「その不死身の彼は実際は不死身ではなかったのですね」
     「いや、不死身であった。彼は山で死ぬような男ではなかった。彼は極めて用心深く、合理的な行動をする男であった。いかなる場合でも、脱出路を計算したうえで山に入っていた」

      槍ヶ岳の北鎌尾根で命を絶った加藤文太郎について、「孤高の人」文頭に置かれた問答である。しかし本当に「不死身」で「合理的」な男だったのだろうか。加藤は吹雪の中でも合羽をまとい、雪中ビバークをしたのだという。 

     (途中で天候が悪化したらどうする)
     第一の加藤がいった。
     「雪洞を掘ってビバークするさ」
     第二の加藤が答える。
     (寒いぞ、ものすごく寒いぞ)
     「寒いことには馴れている。食糧はある」
     (だが吹雪が、二日も三日も続いたらどうする)
     「天候回復まで待つさ」
     (「孤高の人」から) 

     加藤自身が書いた「単独行」を読んでみる。兵庫・氷ノ山での出来事である。 

     しかしスキーは下手だし、半分眠っているような状態でどうして満足な滑降ができよう。ちょっと辷ってすぐ自分から身体を投げ出すようだった。あまり苦しいので、歩いて下ったほうが楽に違いないと思って、スキーをぬぎ、それを一つずつ谷へ向かって辷りおろした。(略)そして僕は、もう駄目だ、ついに自分にも終わりがきたのだとこう思い出した。そして死ぬということが非常に恐ろしくなり、悲しみの声をあげて泣いた。 

     そして、谷が「単独行者」でも取り上げている、加藤自身が記述した八ヶ岳での心象。 

     なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唱う気もしないほどの淋しい生活を、自ら求めるのだろう。―― 
     
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     一人の人間をめぐって、新田が描いたデッサンと加藤自身が描いたそれとは大きなギャップがある。新田は明らかに、加藤が記した心象風景をそぎ落としているように見える。もちろん「孤高の人」はフィクションであるから、新田が基本的な作法を誤ったわけではないし、新田が描く加藤文太郎はそれなりに魅力的でもある。
     ただ、私のように「人間みんなちょぼちょぼ」と思っているものからすると、等身大の加藤文太郎も見てみたい気がするのだ。 

     谷の「単独行者」の末尾には主要参考文献が載っている。しかしここには「孤高の人」はない。このこと一つとってみても、谷がどのようなスタンスで加藤文太郎を描こうとしたかが分かる。

     「第三話 はじめての冬山」。ここには氷ノ山でスキーを持て余したこと、八ヶ岳で年を越しながら凍った蒲鉾を食ったことなどの心象が入念に書き込まれている。「第四話 一月の思い出」は正月の剱岳を目指す話である。ここでは、5人のパーティーと麓の小屋で顔を合わせる。同行をしたいが、うまく言えない。付かず離れず行動するうち、パーティーからはうとんじられる。彼らが歩いた後をたどれば「ラッセル泥棒」と言われかねない。 

     「失敬な奴だな。こんなところまで、追いかけてきて――」
     あとの言葉はききとれなかった。それでも加藤に対する敵意だけは、明瞭に伝わってくる。(略)ラッセルのことなど口に出せる雰囲気ではなかった。

      みずから望んだ単独行なのに、なぜそれに徹することができないのか。(略)自分の弱さが不甲斐なくて、腹立たしかった。(略)気がつくと、視野が涙でにじんでいた。正面から吹き付ける風のせいで、流れ落ちる間もなく涙が凍りついた。

      加藤文太郎は不世出の登山家であることは間違いない。その彼をここまで弱い男として描くのはどうだろうか、という思いもしないではない。しかし、強さは時に折れてしまうが弱さはしたたかである。谷が描きたかったのはそういうことだろうと思う。そして加藤は単独行を自らの登山スタイルとしたが、厳冬期の北鎌尾根だけはパートナーを連れて登った。それが、最期の登山となった。

      だから、怖かった。「人数が増えれば危険は増大する。もっとも安全なのは単独行」という原則は、やはり生きていたのかもしれない。かといって、単独行に戻るのは安易すぎた。意欲的な登攀を実践するには、単独行という枠組みは窮屈になっていた。(「第九話 北鎌尾根」) 

     初めて「単独行」でない登山を実践し、それが加藤の思考を狂わせた、という「孤高の人」の想定はおそらく正しいと思われる。しかし、それは「単独行」を貫けばよかった、ということには結びつかないだろう。もっと複雑な思いが加藤にはあったように思う。谷が描こうとしたのも、最終的にはそこだと思う。 

      「単独行者 新・加藤文太郎伝」は山と渓谷社刊、2500円(税別)。初版第1刷は2010年9月30日。著者の谷甲州は1951年、兵庫県伊丹市生まれ。1981年、カンチェンジュンガ学術登山隊参加。1996年、加藤文太郎をモデルにした「白き嶺の男」で第15回新田次郎文学賞。山岳小説では「遥かなり神々の座」「遠き雪嶺」などがある。


    あらためて低体温症の恐怖を知る~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    あらためて低体温症の恐怖を知る~山の図書館
     

    「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」羽根田治ほか著

     北海道・大雪山系トムラウシ山でツアー登山客18人のうち8人が亡くなったのは2009716日だった。真冬ではない標高2000㍍級の山でなぜこんなことが起きるのか。ニュースの聞いた時の第一印象だった。そして当時のマスコミ報道は、登山客の装備の不備を取り上げた。観光客並みのウインドブレーカーで雨交じりの強風の中を長時間歩いたらしい。レインウエアはビニール製のものもあったらしい。本当だろうか。そんな装備で、3日間で40㌔余りも歩く縦走に出かけるだろうか。もし最新のレインウエアを着ていたら、遭難は起きなかったのか。
     その後、この報道は間違いであったことが明らかになる。遭難者は全員、ゴアテックスのウエアを着ていたのである。マスコミの一過性の報道だけでは再発は防げない。事故の残したもう一つの教訓は、こうしたことでもあった。1年を経てこの書が出たことの意味はそこにある。大量遭難を招いた本当の原因は何だったのか。きちんとした検証が必要なのだ。
     そうした観点から、4人のライターが分析を試みた。そのうちの一人、「山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か」を書いた羽根田治が全体をまとめる形をとった。4人はそれぞれに別個のテーマでアプローチしているが、全体を通して見れば二つの大きな柱があることが分かる。一つは羽根田自身の問題意識によるところが大きい、「ツアー登山」が抱える問題である。もう一つは、知られているようで知られていない「低体温症」の恐怖である。
     構成面からいえば、第1章として羽根田が事故当時のもようをできるだけ忠実に再現したドキュメントを掲載した。続いて第2章は、3人のうちただ一人生き残ったガイドへのインタビュー。第3章には事故当時の気象分析。そして第4章が「低体温症」で第5章に運動生理学面からの「提言」を載せた。第6章は再び羽根田で「ツアー登山」。ここでは、山で発生するリスクはツアー会社と登山客、いずれが負うべきかが論じられている。
     このうち最も重要なのは第4章「低体温症」だろう。かつて「疲労凍死」と呼ばれたが、けっして酷寒の冬山でのみ起きるわけではない。事故当時の気象は第3章で触れられているが、特別な悪条件であったわけではない。風速はだいたい20㍍前後、台風並みだがありえない状況ではない。温度は8度から10度で夏としては寒冷だが真冬並みではない。雨量は午前6時の8㍉が最高で土砂降りではない。

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     しかし、稜線で強風にさらされ続け、沼からあふれた水で川状となった登山道を歩き続けるうち、体力が消耗していく。怖いのは、体温が下がっていくことへの自覚がないまま急速に意識が薄れることである。この書によれば、体温35度以下で歩行や意識に支障が出始める。正常な体温より、わずか1.5度の低下である。34度を下回れば、山では「死にいたる」という。これらの症状は段階的に発生するわけではない。普通、寒ければ震えがくるが、それさえないケースがある。第4章を書いた金田正樹は、トムラウシと同じ716日、大雪山系・美瑛岳で起きた遭難事故について、こう記している。
     「十九時前、背負われて小屋に行く途中に、背中の上ですっとのけぞる形で意識がなくなった。小屋で蘇生術を行ったが、生き返ることはなかった。時間は二十一時だった」
     疲労の度合によって低体温症の発生の仕方は違ってくる。体力を消耗しきってしまうと、体の震えによって体温を上げようとする防衛措置さえ取れなくなってしまうのだ。この点を金田は「低体温症の最も恐ろしい点は、意識レベルが下がるので自分の意志で防衛する動作さえできなくなることにある」という。
     第1章のドキュメントを読んで分かるのは、昨今の中高年登山ブームもあって、装備に不備は見当たらない点である。この山行に合わせてゴアテックスのレインウエアを新調した人もいるほどだ。しかし、その装備を十分に使いこなしていたかどうかは疑問が残る。一方で、この縦走では宿泊する小屋は無人のためシュラフ、食糧は自分持ちである。当然、重量がかさむ。となれば持ち物を削るか、重量に耐えるか。削れないとすれば、果たしてそれだけの重量を担ぐ体力が備わっていたか。そして最大の問題点は、ガイドの経験不足である。山全般についてはそこそこのキャリアがあったかもしれない。しかしツアーに同行したガイドは現地で初めて顔を合わせた間柄。しかもコースを歩いたことがあるのは一人しかいなかったという。こうした事実から浮上する問題点を、羽根田が第6章で掘り下げた。
     第2章にはただ一人生き残ったガイドへのインタビューを載せた。あの事故から1年を経たとはいえ、ガイド自身からすれば心から血を流すような思いのインタビューであろう。事実、このように語っている。
     「この一年は長かったですよ。人生の中でいちばん長かったかもしれないですね」
     そして、なぜ縦走路から引き返すことをしなかったか、について。
     「『ヤバいよ。これ、マズイっすよ』と言いました。『やっぱり引き返そう』と言われるのを、どれだけ待っていたか。でも、『おまえ、なに言っとんだ』みたいな感じでそのまま先に行っちゃんたんで、『行くんだ…』と」
     にわか仕立てのガイド集団の弱みが如実に表れている。だから第6章で羽根田は「事故の要因は『ガイドの判断ミス』の一点に尽きよう」と断言する。具体的には2日目の宿泊地、ヒサゴ沼避難小屋を出発してしまったこと、ロックガーデンの急登の手前で引き返さなかったこと、さらに北沼渡渉点を渡ってしまったこと、である。その背後にはツアー会社の、山のリスクに対する無理解、ガイド資格のあいまいさ、といった問題が横たわる。冒頭に書いたように、羽根田は「ツアー登山」のありかたに相当の問題意識を持っている。基本的に山では、リスク管理は自己責任だが、対価を払って参加するツアー登山はその範ちゅうに入らないともいう。しかし、トムラウシの例を見ると、あまりにも「誰かが何とかしてくれるだろう」といった意識が強すぎるようにも思える。だから羽根田は、自力で生還したある登山者の言葉を引く。
     「結局、自分のことは自分で守るしかない。それがこの事故から得た教訓だ」
     古今東西、万古不易の真理ともいえる。この言葉を心しなければならない。

     
     「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか 低体温症と事故の教訓」は山と渓谷社刊。初版第1刷は2010年8月5日。1600円(税別)。羽根田治はフリーライター。金田正樹は整形外科医でヒマラヤ登山の経験もある。このほかの著者は日本山岳会、日本雪氷学会会員の飯田肇、チョ・オユー無酸素登頂を果たし登山の運動生理学を研究する山本正嘉。 

    山に人間の深淵を見る~山の図書館 [山の図書館・映画館]

    山に人間の深淵を見る~山の図書館

    「山で見た夢 ある山岳雑誌編集者の記憶」(勝峰富雄著)

     いきなり「さよなら山登り」で始まる。山登りの記録を期待していた読者は途方に暮れるだろう。そうなのだ。これは一点から一点へ、どのようにリスクを回避しどのように素早く行動したか、という記録集ではない。若い日には尖鋭な登山にもあこがれた著者は、どちらかといえば自らを「沢ヤ」だという。道さえも定かでない山の深奥部に分け入る。沢から沢へ。山と一体になる、そんな感じを求めている。だから著者は「登山」や「山登り」という言葉は、人間と山の関係の一面しか表現していない、という。そこからもっと、山と人間のいまだ名づけようもない広範な関係を求めていく。これがこの書を書くことになった「動機」だという。
     そして第一部。「山頂の記憶」「山波の記憶」「雪陵の記憶」などと「記憶」シリーズを展開する。これまでの「登山」での印象的なシーンを書き連ねているのである。しかし、それは行動の記録、もしくは記憶ではない。山が自らの存在と人生にどのような影を落としてきたかを語る。山を書くことで著者自身の「深淵」が見えてくる仕掛けになっている。

      あのとき命を繋いだザイルは、今もどこからか自分へと延びている。(略)だがその質量のないザイルは、臍の緒のように、生きている「根拠」を与えつづけてくれている。(「岩陵の記憶」)

     じっと氷を見つめていると、青い氷の底からなにかが浮かび上がってくる。
     
    女の顔だった。(「蒼氷の記憶」) 

     
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     第二部「山嶺を越えて」は比較的、山の行動の記録として読むことができる。その範囲は、北アルプスなどメジャーな地域にとどまらない。むしろ知られざる山域をこそ、著者は目指しているかのようだ。

     いつか訪ねてみたいと思っていた。
     秋山郷。(「山里のマグリット」)  

     そして伯耆大山、出羽三山、秋田・森吉山。
      

     第三部は「渓、そして秘境へ」。沢をめぐり、幻の池にたどりつく。濃い霧が「ハヤクカエレ」と言っているようだ―。九州では「奇跡の谷」を遡行する。すでに文体は幻想の色を濃くしている。「谷の朝はいつも一瞬にして始まる」と書く「九州幻流行」。

      曖昧だった自分のなかの地図が少しだけ明確になった。と同時に、それがごく一部であることをあらためて思う。なぜなら、山顛の向こうに刻まれた、幻のように霞む無数の谷を見てしまったから。

      このとき著者は、登るべき山や渓を見ているのではない。自分が寄り添うべき自然の懐の深さを思っているのである。副題にもあるとおり、筆者は山岳雑誌の編集者を13年間務めた。山行を記録することから始めたに違いないが、それはいつしか思索の記録としての色彩を強めていく。沢を詰め、山の深淵に迫る姿はそのまま人間の存在の深淵に迫る姿と重なる。ノンフィクションとしてより、むしろフィクションとして読むほうが著者の息遣い、鼓動が分かるだろう。 

    「山で見た夢 ある山岳編集者の記憶」はみすず書房刊。2600円(税別)。初版第1刷は2010年5月15日。
     著者の勝峰富雄は1965年生まれ。高校ワンゲル部で山登りをはじめ早大稲陵山岳会に入り尖鋭的な登山に目覚める。卒業後は沢登りに傾倒。学習参考書の編集に携わる。30歳で山と渓谷社に転職。「山と渓谷」編集長を経て出版部プロデューサー。


    山の図書館~みずみずしい抒情の記録 [山の図書館・映画館]

    山の図書館~みずみずしい抒情の記録 

    山口燿久「北八ッ彷徨」

     昭和の初めに生まれ、10代のころに登山を始めたという。昭和19年に獨標登高会を創立、初代代表となる。
     と書けば、戦火の時代に山を切り開く、ごつい山男のイメージがわきあがる。しかし、この「北八ッ彷徨」に収められた写真はそれらを見事に裏切る。眼鏡をかけ、皮の登山靴をはいてどこかの斜面で休息する男性は、どう見ても内向的な優男である。
     そしてこの書の文章もまた、このイメージから外れることはない。

     ――ぼくが山に登りはじめて、もう何年になるだろう。苦しかった山があり、こわかった山があり、さびしかった山があった。苦しい山や、こわい山にはめったに追い返されはしなかったけれど、さびしい山にはときどき敗けた。敗けて帰ったじぶんの弱さは、いつまでも肚にこたえた。(「岩小舎の記」)

     うん。分かるな、この感じ。
     八ヶ岳を歩いたことのある人なら誰でも知っているが、北八ッと南八ッはまったく性格が違う。著者も当然、この点に触れている。

     
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     ――南八ヶ岳があけっぴろげで明るく、派手な山であるのにくらべて、北八ヶ岳は内にひそんで暗く、地味な山である。(略)切り立った線はそのてっぺんに登ってやろうという人間の本能を挑発するが、なだらかな面はそういう情熱を刺激しない。(略)要するに登山という構えた言葉よりも、山歩きとか山旅とかいうおとなしい言葉のほうが、このおだやかな山地には、すなおにひびく。

     著者は明らかに、北八ヶ岳に魅力を見出している。頂上を必ずしも必要としない山歩き。原生林に、著者の思索と抒情に満ちた感性があふれ出ていく様子が見える。だからこの書も「八ヶ岳彷徨」ではなく「北八ッ彷徨」となったのであろう。

     著者の豊かな抒情的感性は、多くの作家がそうであるように「死」のイメージで縁どられている。そう思わせる表現が、そこかしこにある。そのルーツとも思えるもの―。この書の末尾には「富士見高原の思い出」というわりあい長めの文章が収められている。著者が結核を患い、八ヶ岳のすそ野で長い療養生活を強いられたときの経験を書いている。

     ――ふと、いま自分が寝ているこの同じベッドで幾人かの人が死んだはずだということに気づいた。(略)自分はいま少なくとも幸福とはいえないが、死につつある隣室の人よりかは不幸ではないと思った。


     ――小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉樹の落ち葉の、すさまじい狂乱の舞台だった。(略)
     滅びるものは滅びなければならぬ。一切の執着を絶て!(「落葉松峠」)

     この無常観。そしてこの文章は、こう締めくくられている。

     ――心を澄ませば、なにもかも美しすぎる山の春の自然だった。

     そうした中で、「岩小舎の記」の章は一味違っている。「岩小舎」があるのは北八ッではなく、南の八ヶ岳の稜線。阿弥陀岳の頂上下、ほとんど人の入ることのない沢にそれはある。地元の人も、存在は知ってはいても場所を知らない「岩小舎」の入り口を偶然見つけ、以来、壁を登る際の拠点としてきた思い出をつづっている。北八ッを歩く時の思索に満ちた文章とはがらりと変わって、ここには著者の山男としての「強さ」と行動力がにじむ。

     いずれにしても、雨の日に山を歩けない無聊を紛らわすため、「北八ッ」をさまよってみるのに最適の著と言える。そしてこれを読めば、間違いなく八ヶ岳の自然をめぐりたくなる。

     「北八ッ彷徨」は平凡社刊。1300円(税別)。初版第1刷は2008310日。
     著者は1926年、東京生まれ。後立山不帰Ⅱ峰東壁などルート開拓。串田孫一らと山の文芸誌「アルプ」編集に参加。主な著書に「八ヶ岳挽歌」(平凡社)など。

    北八ッ彷徨―随想八ヶ岳 (平凡社ライブラリー)

    北八ッ彷徨―随想八ヶ岳 (平凡社ライブラリー)

    • 作者: 山口 耀久
    • 出版社/メーカー: 平凡社
    • 発売日: 2008/03
    • メディア: 単行本


    山の図書館~「エベレストの神話」に挑む [山の図書館・映画館]

    山の図書館~「エベレストの神話」に挑む 

    「マロリーは二度死んだ」(ラインホルト・メスナー著) 

    ジョージ・マロリー。1886年、イギリスで生まれる。ラインホルト・メスナー。1944年、イタリアで生まれる。共通項は登山家。マロリーは1924年、3度目のエベレスト挑戦で消息不明となり、「登頂」をめぐって論争を巻き起こす。75年後に遺体がほぼ完全な形で見つかったが、論争は決着していない。メスナーはエベレストを無酸素単独登頂。「ヒマラヤより高い山に登ることは不可能だし単独行より少人数の遠征などありはしない」【注】と語って山を降りる。マロリーは多くの謎を残したことでエベレストの神話となり、メスナーはすべてをやり遂げたことで神話とはならなかった。

    2人の、おそらく不世出の登山家が「エベレスト登頂」の謎をめぐって語り合う。メスナーが、ある時はマロリーの目となり、ある時は天空を飛ぶ鳥の目となり…。それは1999年のマロリーの遺体発見時のもようから始まる。こんな風な語り口だ。

     「もう何週間も前から私を探していたという者たちが、私がひっそりと憩っているこの場所に突然やってきた」

     マロリー=アーヴィン調査遠征隊の隊員が目にした、標高8250㍍のテラスの上に横たわる「白くて細長い奇妙な物体」-。それが、マロリーのほぼ完全な遺体だった。うつぶせで、鋲靴をしっかりとはいていた。背中はむきだしで白い大理石のようだったという。

     一転、舞台は1924年へと移る。頂稜を行くマロリーとアーヴィンを目撃したのは、地質学者でもあったオデルである。

     
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     「頂上がはっきり見えた。頂上ピラミッド手前の、上から二つ目の段差の下に、黒点を一つ見つけた。それは岩の段差に近づいていった」

     マロリーが挑んだ稜線はヒラリー・ルート(南東稜)とは反対側の北稜だった。ここには岩の難所がある。いわゆる第2ステップで、この垂直の壁を登るか、それとも北壁を巻くか。どちらも困難であることに変わりはない。オデルが見たのは第2ステップの下部だったのか、それとも上部だったのか。第1ステップの近くだったのか。第2ステップに取りつくところを見たと証言するが、疑問視する声は多い。そしてここが議論の分かれ目になっている。第2ステップを越えれば頂上まで約250㍍、ほぼ平坦な稜線が続くだけだからである。もしマロリーが登頂を果たし、下山中の姿をオデルが見たのだとすれば…。

     1933年には別の遠征隊によってピッケルが見つかる。第1ステップの手前、マロリーの持ち物と分かる。だが、謎を解く鍵にはならない。謎は深まるばかりだった。その後も遠征隊が続々とエベレストに乗り込む。1953年、ヒラリーとテンジンが、南面からの登頂に成功する。中国は1960年に大規模な遠征隊を送り込み、マロリー・ルートから登頂したと発表するが、メスナーは疑問を呈する。第2ステップを人間ばしごで乗り越えた? 本当だろうか。登頂は深夜だったというが、これも本当だろうか…。だがその一方で、だれもマロリーの遺体に気づかない。

     焦点は、マロリーが第2ステップを越えたかどうかだ。メスナーはオデルにも直接会い、確かめる。そしてメスナーとしての結論を出す。とてもそこまで書くわけにはいかないだろう。ぜひ自分の目で確かめてほしい。

     それにしても、神は一人の人物に二物も三物も与えるものだ。細かい事実関係で疑問点はあるというものの(訳者自身が、あとがきでそう書いている)、一流の登山家による縦横無尽の筆さばきには感心する。意味深なタイトルの意味も、読めば分かる。

     ところで「2度死んだ」マロリーは、これで永遠の眠りについたのだろうか。いや、マロリーはきっと今もエベレストの風になって山稜を漂っているに違いない。神話は終わってはいないのだ、と思う。

     

    【注】「ラインホルト・メスナー自伝 自由なる魂を求めて」から。

      「マロリーは二度死んだ」は山と渓谷社刊。1600円(税別)。初版第1刷は2000年8月20日。ラインホルト・メスナーは南チロルに生まれ、8000㍍峰14座すべてを登頂。冒険家としても知られ、グリーンランド、南極、東チベットを徒歩で横断した。「自伝」はTBSブリタニカ刊、2500円(税込)。初版第1刷は19921120日。

    マロリーは二度死んだ

    マロリーは二度死んだ


    山の図書館~45億年のロマン [山の図書館・映画館]

     山の図書館~45億年のロマン

     「日本の山と高山植物」(小泉武栄著)

     山に登ると、周りの景色を眺めては「ああ、いいなあ」と思い、路傍の花に見とれては心を癒される。下山すれば明日への活力がみなぎる自分がいる。そんなとき「ちょっと待てよ」とは思わない。この山はどういういきさつでできたのだろう、とか、あの山とこの山はどうして形が違うのか、とか、この花はどこから来たのだろう、とか。普通考えないものである。それを考えてみる。思いをはせてみる。もし、そういう気持ちがあるなら、この本はあなたにとって最適の友になるに違いない。

     「日本の山はなぜこんなに美しいのだろうか」。著者はこう書き出す。海外の山を知らないので日本の山が相対的にどのような価値を持つか考えてみたこともないが、著者によれば日本の山岳は氷河こそ持たないものの、それ以外のあらゆるものがそろっているという。この多様性こそが特徴だという。例えば槍穂や剣なら岩壁、ナイフリッジ、カール、モレーン。白馬なら大雪渓に多彩なお花畑。凡人である私たちの感性はしかし、これらの風景を見て感嘆するにとどまる。著者はその先を探索する。たとえば気象条件。世界に例を見ない強風と多雪。ジェット気流が日本海で合流し、冬の強風を生む。そこに対馬海流から上昇する暖気がぶつかる。日本の山の厳しさと美しさが生まれる。北アルプスに行けば夏でも残雪のある風景と出会うが、これも世界的に見れば珍しいのだそうだ。

     
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     高山植物の多くは北方系だとされるが、それはどのように南下したのだろうか。千島やサハリン、ユーラシアの北方から、氷期に海を渡ってきたらしい。その伝播には火山活動も貢献しているという。森林が破壊され、その後に北方から渡ってきた植物が芽を出す。

     「ヨーロッパアルプスにはなぜハイマツ帯がないのか」「日本の山はなぜ森林限界が低いか」「日本の国土は地層の博物館のように複雑だ」―。著者は、世界的に見て日本の高山は「正統派」であり、複雑で繊細な美しさを持つという。これらを主に地質学の観点から詳細に解き明かし、プレートテクトニクス理論を用いて山脈の形成にまで踏み込むが、ここでそれらを一言にまとめるのは難しい。直接読んで自然の不可思議さを味わっていただきたい。

     地球は約45億年前に誕生したとされるが、現在の地形が形成されるにいたった最終氷期からは1万年である。既に縄文時代は始まっていた。1万年は人間の持つ時間で考えると長いが、地球史の中では1冊の書物の最初の1文字にすぎない。私たちはそのまた一瞬の時間の中で山に登り、感嘆し、癒されているわけだ。ときにはそんなロマンに浸るのもいい。

     地質や気象や植生やその他の分野について、それぞれ専門的に掘り下げた書はあるが、これほど各分野を総合的に考察した仕事を、ほかにしらない。分かりやすく書いてはあるが、学術的な部分もあって読むのに忍耐を要するところもある。そんな懸念がある場合は同じ著者の「山の自然学」がお勧めだ。「氷河時代の植物群 礼文島」や「森林限界がなぜ低いか 早池峰山」「二重になった山稜 雪倉岳」のように、山ごとにトピックをまとめてある。訪れた山のイメージを描きながら読むと分かりやすい。「日本の山と高山植物」が総論であり「山の自然学」が各論-と言えるかもしれない。

     

    「日本の山と高山植物」は平凡社新書。初版第刷は2009年9月15日。

    「山の自然学」は岩波新書。初版第刷は1998年1月20日。

     小泉武栄氏は1948年長野県生まれ。東京学芸大教授。専門は自然地理学。


    日本の山と高山植物 (平凡社新書)

    日本の山と高山植物 (平凡社新書)

    • 作者: 小泉 武栄
    • 出版社/メーカー: 平凡社
    • 発売日: 2009/09
    • メディア: 新書

    山の自然学 (岩波新書)

    山の自然学 (岩波新書)

    • 作者: 小泉 武栄
    • 出版社/メーカー: 岩波書店
    • 発売日: 1998/01
    • メディア: 新書


    山の図書館~「疲労凍死/天幕の話」(平山三男著) [山の図書館・映画館]

    山の図書館~「疲労凍死/天幕の話」(平山三男著) 

     昨年の夏、北海道のトムラウシ山でツアー中の9人が亡くなった。緯度の高い北海道とはいえ、7月のことである。亡くなった中には経験豊かなガイドもいた。「なぜ」という疑問符は、いまだに心を去らない。この時、遭難した人たちの直接的な死因は低体温症、つまり「疲労凍死」だった。

     時に遠征したりすると、無理をすることがある。「いっぱいいっぱい」なのに歩いてしまう。幸い大事に至ったことはないが、山小屋に入ってなぜか寒く、布団をかぶってもガタガタ震えることがある。体温調節機能が壊れている。「ああ、バテてるな」と自覚する。

     この「疲労凍死」で取り上げたのは55年前の事故である。2000㍍に満たない那須連山。残雪があるとはいえ、5月の出来事だ。歩きなれた地元の山。2泊3日の行程。そんな中でなぜ高校山岳部の、引率教師を含めた16人中6人が亡くなったか。著者は彼らの行動を詳細に追いながら、だれもが遭遇するかもしれない惨事を再現する。

     二つ玉の低気圧。気温度。風速10㍍以上の風。長い稜線…。そう、これはあの「トムラウシ」に酷似しているのだ。そのうえで、当時は携帯ラジオが普及していなかったこと、雨具が現在のようなゴアテックス製などおよびのつかないものであったこと…などの悪条件が重なる。

     
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    「疲労凍死/天幕の話」の表紙

     ある広い山頂で、下る尾根筋を間違えたことがすべての発端となる。ルート探索に
    人を出す。闇が訪れる。救助要請に、さらに2人を出す。滞留したパーティーは、どんどん体力を消耗させていく。ついには教師自ら救助を求め山を下りる。一つの集団がばらばらになる。

     丹念に裏付けられた事実が、抑えた筆致で描かれる。救助されたものと、されなかったもの。残酷なまでの対比。そんな中で、部長を務める3年生の母の、ただ山を見つめるたたずまいが共感を呼ぶ。母一人子一人なのだ。感情を抑えきったかに見えた母はしかし、引率教諭の自宅に出向き、叫ぶ。「私の息子を返せ」と。「あとがき」によると母の行動は事実に基づくという。

     著者の平山はある女子高の山岳部を率いてヒマラヤ登頂を成功させた経験を持つ。それだけにこの母の叫びは重いのだ。どんなことがあっても、山で死んではならないのだ。

     「天幕の話」は、死んでしまった山男との、永遠ともいえる対話である。単独行の天幕に、ウイスキーの入ったカップが二つ。語られるのは目の前にある「死」の手触り、におい、光景である。それらが幻想的な筋立てで展開する。「『天幕の話』外伝」として編まれた「桃井の恋」とともに「山男なら分かる」味わいだ。

     ここにあるのは小説家による山岳小説ではなく、まぎれもなく登山者による小説だといえる。一つ不満なのは、タイトルが即物的なこと。でもこれも、山男の武骨さと思えばいい。

     

    「疲労凍死/天幕の話」は山と渓谷社刊。1700円(税別)。初版第1刷は2009101日。「疲労凍死」は「山と渓谷」に「天幕の話」「『天幕の話』外伝 桃井の恋」は「山の本」に連載、もしくは掲載。

     平山三男は1947年、栃木県生まれ。立川女子高教諭として同高山岳部のヒマラヤ・ゴーキョ遠征に同行。この時の体験をまとめ出版したことがある。現在は東洋大文学部講師。

    山溪叢書4 疲労凍死/天幕の話

    山溪叢書4 疲労凍死/天幕の話

    • 作者: 平山三男
    • 出版社/メーカー: 山と溪谷社
    • 発売日: 2009/09/09
    • メディア: 単行本


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